仮初め婚はじめました

しおん

神様と仮初め夫婦、はじめました

序章:神様の指輪

 その日、雨が降る予報ではなかった。

 なのに空は低く曇り、ぽつり、ぽつりと静かに落ちた水滴が、石畳ににじんでいく。


 美弥みやは祖母に頼まれ、神社の奥にある倉の掃除をしていた。

 古びた蔵の扉は、錆びた鍵がかろうじて支えているような状態だったが、美弥が手をかけた瞬間、まるで時が来たかのように――軋みをあげて、開いた。


「え……鍵、開けたわけじゃないのに」


 内部はひんやりとしていて、ほこりと、古紙の匂いが鼻をついた。

 積み上げられた木箱の奥。祀られていたのは、一本の古びた木台の上に置かれた――指輪だった。


 黒曜石のような漆黒の石が嵌め込まれたそれは、明らかに場違いなほどに美しかった。

 無意識に手が伸びて、触れた。


 ――かちゃり、と音がした。


 次の瞬間、空気が変わる。


 重く、湿って、肌がぞわりと粟立つ気配。

 そして、背後から風が巻いた。


「……解かれたか」


 振り向いた先、そこにいたのは、白い装束に身を包んだ青年だった。

 黒髪は風もないのにゆるやかに揺れ、金の瞳がじっとこちらを見ている。


 人間離れした、美しさだった。

 けれど、それ以上に、美弥の目を引いたのは、彼の指先に光る――あの指輪だった。


「な、なに……? 誰……?」


「我は、葦原あしはら。かつてこの地を護りしもの。そして、君の夫となる存在だ」


「は?」


「契約は成立した。よって、君は“妻”となった」


 意味が分からなかった。怖い、よりも先に、意味が、分からなかった。


「ちょっと待って、いや、結婚とか、契約とか、私、そんなつもり――」


「指輪に触れ、封印を解いた瞬間、縁は結ばれた。さあ、共に行こう。君の名は?」


「み、美弥……ですけど……」


 青年――葦原は、うっすらと目を細めて、微笑んだ。


「美弥。良き名だ。我の妻となるに、ふさわしい」


「ちょっと待った!! 誰が妻よ!? 戸籍もないくせに!」


 叫んだ美弥の声が、静かな蔵の中にむなしく響いた。


 そして、外に出ると、雨はすっかり止んでいた。




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