その翡翠き彷徨い【第33話 氷の瞳と炎の血脈】

七海ポルカ

第1話




 サンゴール王立魔術学院の院生であるイズレン・ウィルナートはその日不機嫌だった。



 扉を開いたら この夏まで一人だった寮の部屋の中には同居人の姿が見えた。

 その姿も、もう大分見慣れたものだ。

 この同居人はいつも窓辺で本を読んでいる。


 ほとんど部屋を開けているイズレンとは逆で、あまり外に出ようとしてない。

 扉を開くと彼は「おかえり」といつもの顔で微笑んだ。

 イズレンは、自分で言うのもなんだが気のいい男だ。

 怒ったりもあまりしない。

 成績はいい方ではなかったが友達は多かった。

 しかしそんな彼でもごく稀に苛々とし怒ってしまうこともやはりある。

 ぷい、と同居人から首を反らすのはもう反射的な行動だったからどうしようもない。


 イズレン・ウィルナートの同居人――メリクはきょとんとしたが、機嫌が悪いのかなと思って敢えて何も言わなかった。

 メリクは元来側にいる人間の感情には聡い。幼い頃から他人の群の中で育てられたものだから、自然と常に周囲の人間の感情を探るような性格になってしまったのだ。

 イズレンは上着を自分のベッドに半ば投げつけるようにすると、そのままベッドに自分の身体も投げ出し、こちらに背を向けたまま何も言わなくなった。


「イズレン?」


 メリクがちょっと声を掛けたが、友の拒絶をその背中に感じてそれ以上は何も言わなかった。

 魔術学院の鐘が鳴っている。

 メリクは仕度を整えて、出て行くとき、もう一度ベッドの方を見たがそのまま静かに部屋を出ていった。

 イズレンはその日は結局学院には現われなかった。

 授業が終わった後少し教室に残り課題を仕上げてから寮に戻ったが、戻ると部屋は暗く誰もいなかった。


 メリクは窓辺に歩いて行って窓を開いた。

 そこから見える魔術学院校舎の更に向こう、山の上に灯りが見える。

 それはサンゴール王城の灯りであった。

 夜闇にも沈む事無い、紛れも無くサンゴール王国の心臓部そのもの。

 じっとその光をそこから見上げていたが、ひんやりとした風が吹き込んで来てメリクの首筋を撫でて行く。


 吐く自分の息が白いのを見て、メリクは窓を閉めた。



◇   ◇   ◇



 翌日目を覚ますと、友の寝台はまだ空だった。

 イズレン・ウィルナートはメリク以外の友達も数多く持っている青年だ。

 彼らはその年頃の青年達らしい好奇心と行動力に満ちていて、魔術学院の正門が閉じても悠々とそれを乗り越えて城下町に繰り出すのはいつものことだった。

 どれだけ遅くても朝までには帰るから心配するなと笑いながら説明を受けたのは、ここにやって来てすぐのこと。だからメリクは眠る時に一人でも心配はしなくなっていなかったが、朝になっても友が戻っていなかったのは初めてのことだった。


 そういえば様子が少しおかしかったと思いながらも相手が口に出さないのならば、メリクは心情としてこちらからも聞き出すことはしないようにしていた。

 元々イズレンにも彼の友達にもその生きる環境に好奇心を持たれても、なかなかうまく説明出来ない女王の養子『格』のメリクは自らが沈黙する代償として、いつも周囲にも一定の距離を尊重して生きて来たからである。


 不在は五日間続いた。


 その頃にはすでにメリクはイズレンの友達から心配することは無い、お前が同室になる前までは何日も不在にすることなんかザラだったんだから、むしろお前が来てからちゃんと戻るようになったことの方が驚くべきことなんだからと説明を受けていて、そうなのかと納得して待つことにしていた。


 誰かと同じ部屋で過ごすことなどメリクは初めてだったが、かといってサンゴール王城にはいたるところに人は存在しているため、人の気配に慣れていないわけでもない。

 メリクはサンゴール王城ではほどよく意識されほどよく無視をされる、そういう丁度いい立場だったのである。部屋に人がいようがいまいが、その頃のメリクには大した違いは無くなっていたのが幸いしたのだろう。

 

 メリクは騒ぐことも無くイズレン・ウィルナートのいない五日間を静かに過ごしていた。


 五日後。


 メリクが魔術学院での講義を終えて夕刻寮に戻り部屋の扉を開くと、その途端に声が聞こえて来た。



「おかえり」



 メリクは瞬きをする。


 窓辺にイズレン・ウィルナートが座っていたのである。彼の表情はいつもの朗らかなものに戻っていた。

 メリクはホッとする。


「……ただいま」


 一人には、メリクは慣れていた。


 だが友にそう返した時自分がはっきりと安堵しているのを感じて、メリクは自分が二人でいることにも慣れ始めていたのだということに気づいたのだった。


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