そして出会えた君と、儚く壊れる夢の続きを。

馳月基矢

プロローグ

プロローグ

 わたしは、よく夢を見る。

 子供の頃からずっと同じ夢を見てきたし、近頃になって、新たに不思議な夢を見始めた。


 運命の恋人たちの夢と、壊れものの予知夢。

 二つの夢が導く未来に、君の姿があったんだ。


   *


 春休みが始まったばかりの土曜日の、市立図書館の学習室。

 なかなか書き進められない台本を前に、わたしは頭を抱えた。


「やっぱり無理だって。恋愛ものの脚本と演出なんて荷が重い……」


 ついつい泣き言をこぼしてしまう。

 だって、わたしは現実の恋をしたことがない。

 物語に心をゆだねて、その中で恋を疑似体験したことなら、数えきれないくらいある。

 小説にも漫画にも映画にも夢中になるけれど、わたしがいちばん没頭できて、まさしく「体験した!」とまで感じるのは、演劇の舞台だ。


 わたしは舞台が好きだ。

 ストレートプレイでも、原作ものでも、ミュージカルでも、朗読劇でも、大衆演劇でも、何でも好き。役者が舞台の上で何かを演じているという、あの情景、あの時空間そのものが好きなんだ。

 舞台の上に立っているときはもちろん、舞台袖からでも観客席からでも、物語に引き込まれる。物語の中で生きている、という疑似体験ができる。


 わたしは、舞台というものを通じて、わたしではない誰かの人生を生きる。その中で恋をする。幸せな恋も、悲しい恋も。

 ……してきた。たくさん。自分でない誰かとしての恋ならば。

 でも。


「あぁもう、どうしよう!」


 この際、わたしに恋愛経験があろうがなかろうが、そこは重要じゃないんだ。

 もはやそんなこと言ってる場合じゃなくて。

 問題は、四月の公演に使う台本がいまだに完成していないこと。すでに三月下旬なのに。

 大筋は一応できている。ただ、肝心の部分、恋する気持ちのクライマックスがうまく表現できない。ラストのインパクトにも欠ける。


「足りてないのは台詞? それとも、語りすぎずに演出で見せるほうがいい? ここ、どんなト書きがいるの? もう、わけがわかんない……」


 想像をふくらませたら、何でも書ける?

 ……だったらいいんだけど。

 無理。あせってしまって、何かダメ。


 わたしはため息をついて、窓の向こうを見下ろした。

 図書館は市民公園の隅に建っている。遊具は隅のほうに少し置かれているだけの、細長い形をした緑地公園だ。木々と芝生と花壇の間を、遊歩道が向こうのほうまで続いている。

 いつもより人通りが多いな、と思った。それで、はたと気づく。


「あ、バザーって今日だったんだ」


 中高生の友達グループや家族連れ、大学生のカップルかなって人たちも、散歩やジョギングの途中みたいな人たちも、大勢がバザーのにぎわいを楽しんでいる。

 小学生の頃、わたしもバザーで売り子をしたことがある。うちの両親が経営するデザイン事務所の従業員の中に手芸が得意な人がいて、バザーに出店するというから、手伝わせてもらったんだ。

 あのときは楽しかった。今年はどんな店が出てるんだろう?


 日頃はオンラインの店を運営しているクリエイターも、バザーに出店したりするんだ。わたしも舞台の小道具や衣装を作るから、ものづくりをする人たちの店を訪ねるのは楽しい。

 もうバザーを見に行っちゃおうかな。このまま台本とにらめっこしてても、どうせ進みっこないし。


 午後三時過ぎ。お昼からねばっていたけれど、進捗ほぼゼロ。

 財布の中を確かめると、やっぱりあった。ご近所さんからいただいた、バザーのチケット。三百五十円のおやつが三つ買える。

 もういいや。頭を切り替えよう。


「うん、そうしよ。台本の締め切りまで、まだもうちょっとあるもんね。大丈夫」


 そういうことにしておく。

 わたしは筆記用具やノートをリュックにしまい込んだ。図書館を出て、市民公園へと歩きだす。


 明るく暖かな日差しの中で、並木の桜がぽつぽつと咲き始めている。時おり満開の木も交っているのは、山桜かな。ここの並木は、ソメイヨシノだけではないみたい。

 図書館や市民公園、市民ホールがあるこの一角は、広々として緑が多くて、居心地がいい。普段の静かな様子はもちろんのこと、バザーやお祭りなんかのイベントの雰囲気も、わたしは好きだ。


 大きなくすの木のところから、バザーのテントの列が始まっていた。

 いちばん手前のお店には、かわいい看板が出ている。

 手作りっぽい木のフレームに、子供が書いたような字の「カフェひより」。ジェラートやフレッシュジュース、コーヒー、手作りのケーキやクッキーを出しているみたいだ。

 ジェラートの文字に目をひかれる。定番のバニラとチョコのほかに、果肉たっぷりのいちごと、季節のジェラートというのもある。メニューには全種類のジェラートの写真も貼られている。


「季節のジェラートって、桜なんだ。色がかわいいし、おいしそう。いちごにしようと思ってたけど……あー、どうしようかな」


 独り言のつもりが、うっかり声が大きくなっていたらしい。テントの中で働いている人が、パッとこっちを見た。

 男の人だ。というか、背格好から察するに、たぶん同い年くらいの男の子?

 目が合いかけたのは一瞬で、彼はすぐにうつむいてしまった。

 話しかけられた、と思わせちゃったかな? 何だか気まずい。

 わたしは声が通る。発声練習の弊害。わたしは裏方のほうが多いけれど、発声練習は演劇部全員で取り組んでいるから。


 何にしても、わたしはジェラートを食べることにした。

「いちごか、桜か」

 なおも悩みながら、カフェひよりのテントの列に並ぶ。わたしのすぐ前にいるのは、たぶん小学校に上がっていない年頃の女の子だ。


 こんな小さな子が一人のはずはないよね?

 そう思って視線をめぐらせると、くすの木の影にある百葉箱のそばで、泣いている赤ちゃんをあやしながら、女の人が困った顔でこちらを見ている。女の子とおそろいのワンピース姿だし、あの人がお母さんなんだろう。


 女の子と目が合った。とっさに笑顔をつくる。

「何を食べるの?」

 尋ねてみたら、笑顔で答えてくれた。

「ピンクのジェラート! いちごのほう!」

「そっか。きれいでかわいいよね」

 うん、と女の子が目をキラキラさせる。


 女の子の番が来て、カフェひよりのスタッフさんが優しい笑顔で注文を訊いた。女の子は元気よく答える。

「いちごのジェラートをください!」

 スタッフさんたちの間で「いちご、あといくついける?」「あと二つです」と会話が交わされた。


 ……あれ? ちょっと待って。

 何かこの場面、どこかで……。


 女の子がお金を払って、手早くコーンに盛られたジェラートを受け取って、スタッフさんに「ありがとう!」と笑顔を見せて。

 次はわたしの番だ。結局、いちごのジェラートのほうを選んだ。チケットでお会計をして、最後の一つになったジェラートを手渡される。その瞬間、小さな悲鳴が聞こえた。

 わたしは振り返る。


 ……ああ、やっぱり。夢で見たとおりだ。


 女の子がジェラートを落として、今にも泣きそうな顔をした。

「落としちゃった……」

 女の子がぽつんとつぶやく。


 泣きやまない赤ちゃんを抱いて、途方に暮れた顔のお母さん。女の子まで泣いちゃったら、お母さんも泣きたくなるだろう。

 わたしは思わず、女の子のほうに近づいた。しゃがんで目の高さをそろえる。

 女の子が落としたのは、最後から二番目のいちごのジェラートだ。最後の一つは、わたしの手にある。作り直してもらうことはもうできない。


「はい、どうぞ」

 いちごの赤い果肉が交じるピンク色のジェラートを差し出したら、女の子は目を丸くした。

「いいの?」

「うん、いいよ」

「お姉ちゃんはどうするの? ジェラート、食べないの?」

 心配してくれるんだ。いい子だな。

「大丈夫。お姉ちゃん、実はね、桜のジェラートも食べたいなって思ってたの。だから、今から新しいのを買うね。ほら、早く食べないと、溶けちゃうよ」


 女の子が笑った。

「ありがとう!」

 わたしの手から受け取ったジェラートを、さっそくぺろっとなめる。涙の気配はもう去っていた。


 赤ちゃんをあやすお母さんが、申し訳ないくらい、ぺこぺこと頭を下げている。お財布を取り出そうとする気配。

 大丈夫です、と、わたしは手振りで示した。

 だって実際、いちごも桜も、どちらのフレーバーも気になっていたんだし。それにわたし、バザーのチケットはまだ持ってるし。


 わたしは女の子に言った。

「ね、ママに、お金は大丈夫って伝えてきて。お姉ちゃん、チケットをいっぱい持ってるからって」

「わかった!」

 女の子は、ジェラートが崩れないように気をつけながら、早足でとことこと去っていく。


 ほっとした。

 夢で見たのは、女の子がジェラートを落としてしまうところまでだった。そこでおしまいじゃなくて、現実には続きがあったんだ。女の子が笑顔になってくれてよかった。


 わたしが改めてカフェひよりのテントの列に並ぼうとしたら、声を掛けられた。

「お客さま。もしよかったら、こちらをどうぞ」

 振り向いたら、中学生くらいの少女がカフェひよりのエプロンをつけて、ジェラートをわたしに差し出していた。

 ジェラートはほんのりとしたピンク色で、桜の塩漬けがてっぺんに載っている。


「え、いいんですか? チケットは?」

「受け取ってください。さっきの女の子のジェラート、こっちで作り直して渡せたらよかったんですけど、いちごがちょうどなくなっちゃって。助かりました」

「そういうことなら、遠慮なく。ありがとうございます! いちごと桜、どっちにしようか迷ってたんです」


 中学生らしきスタッフさんは、ぺこりと頭を下げて、テントのほうに戻っていった。

 市民バザーでは、小学生や中学生もお店で活躍している。わたし自身がお店を手伝ったときも充実していて楽しかった。こういう雰囲気、わたしは好きだ。


「いただきます」


 溶けないうちに、わたしもいただく。

 プレゼントしてもらったジェラートはひんやり甘くて、桜の葉の香りと風味がした。シナモンにも少し似た、甘いだけじゃない香り。苦みや酸味とも違う、もどかしいような風味だ。

 今の気分は、こっちだったかも。

 きっぱりしたピンク色で、いかにも甘ずっぱそうな、いちごのジェラートではなくて。

 桜のジェラートを口にした途端、この味わいは何かに似ていると思った。さっきまで頭の中を占めていた悩み事が、ふわっと、またわたしの目の前に立ち現れた。


「恋を描いた物語、か……」


 うまく書けなくて、もどかしい。

 甘いだけじゃなくて、苦いようなすっぱいような、不思議な風味があって。

 わたしは淡いピンク色のジェラートを口に含んだ。

 どこか切なく、ほのかな味わいの、桜のジェラートを。


 早春。

 それが始まりの日だったことを、わたしはずっと後になって知った。

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