第2話 不思議な路地裏

午後の光が斜めに差し込みはじめたころ、私はひとり、京都の奥まった裏路地に立っていた。観光客の賑わいが遠ざかり、街の鼓動が静かに落ち着きを取り戻していくような場所。苔むした石畳の上に、細く低い瓦屋根の町家が肩を寄せ合い、影と光が優しく入り混じっていた。通りに漂う空気には、ほのかに木の香りが混じっていて、足元を通り抜ける風がそっと裾を揺らす。


時がゆるやかに流れている――そんな言葉が自然と脳裏に浮かんだ。


私は、祖母の日記に書かれていたとおりの道をたどる。

スーパームーンの夜だけ開かれるという、不思議な店々が軒を連ねる路地。

祖母が大切にしていた、“もうひとつの宝物のような京都”。

その記憶のかけらをたどるように、私は石畳を一歩一歩確かめながら進んでいった。


やがて、薄暗い通りの先がふっと青白い光に包まれ、道がふわりと広がっていく。


その瞬間、私は思わず息をのんだ。


「うわぁ……なんて素敵。こんなところがあったなんて」


目の前に広がる光景は、まるで夢のなかの一場面のようだった。


最初に目に入ったのは、小さな硝子戸の向こうで、虹のように輝くビーズが風に揺れている店だった。光を受けて、赤、青、金、翡翠色……色とりどりの粒が、音もなくささやき合っている。まるで風鈴の音を、視覚で感じているかのようだった。


胸の奥が静かに高鳴る。私はそっと戸を押し開け、足を踏み入れた。


棚の上には、古びた紙箱がいくつも積まれていた。それぞれに「チェコビーズ」「昭和ガラス」「天然石ミックス」などと、手書きのラベルが添えられている。

どれもが、時を超えてここに集められた宝物のようだった。


思わず指先が触れそうになる。


「きっと、おばあ様もこうして悩んでいたんだろうな。どれを選ぼうかって、指でそっとなぞりながら――」


その姿を想像しただけで、胸の奥がぽっと温かくなった。

店を出たあとも、きらめきの余韻が心に残ったまま、私は次の店へと足を向ける。


次に見つけたのは、色とりどりの布が天井まで積み上げられた店。

レースや絹、古布の端切れがぎっしりと詰め込まれ、色褪せた西陣織の帯地の隣には、異国の香りをまとう布地が並んでいる。中東の幾何学模様、東欧の花柄、フランスのアンティークレース――見ているだけで、胸の奥がほんのりと弾むような、美しい布たち。


普段は、白いカッターシャツに黒のズボン、そしてバリスタ用の黒いエプロンという、カフェの制服で過ごすことが多い。

休日もジーンズに無地のTシャツと、どちらかといえば飾り気のない服装を好む私だが、“気合いを入れたお出かけ”には、大好きなエスニックの羽織や小物をそっと足す。今日も、細やかなカッチ刺繍の古布を使った手提げを肩に掛け、胸を高鳴らせながら歩いていた。


そんな自分の装いと、この異国の記憶をまとった布たちが、どこか遠いところで繋がっているように感じ、それぞれの布に宿る記憶が、柔らかな手触りを通して静かに語りかけてくるようだった。


「布にも、記憶があるみたい」


指先に伝わる温もりに、私はそっと目を細める。


さらに奥へ進むと、水引やアンティークの金具を扱う店が目に入る。

どの店も、どの棚も、どこを見ても心が弾む。

初めて訪れる場所なのに、なぜか懐かしいような、不思議な感覚。


は自然と軽くステップを踏んでいた。


――そのとき、ふと空気が変わった。


胸の奥がきゅっと締めつけられるような、静謐な気配。

冷たくもあたたかい、相反するものが重なり合うような空気。


気づけば私は、ひときわ静かな気配をまとった一軒の店の前に立っていた。


木の扉には、小さな看板が下がっており、そこにはただ一言――「古道具」とだけ。

硝子越しに覗くと、古びたランプや時を止めた懐中時計、無造作に積まれた本や陶器が見える。店内の空気さえも、色褪せたセピア色に包まれているようだった。


私は胸の高鳴りを抑えきれず、そっと扉に手をかけた。


カラン――。


静かな鈴の音が響き、扉を開いたその瞬間、耳に馴染んだ声が柔らかく届いてきた。


「いらっしゃい。よく来てくれたね、紫水ちゃん」


その声に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


声の主は――琥珀おじさま。


深い茶色の瞳、整った口ひげ。ダークブラウンのジャケットに身を包み、片手には琥珀のステッキ。朝カフェで会ったときとは違う、どこか神秘的な佇まいをまとって、そこに立っていた。


「おじさま……どうしてここに? 朝は何も……言ってなかったのに」


戸惑いと驚きで、言葉がうまく出てこない。


思い返せば、あの時の私は日記の中に見覚えのない一節を見つけ、

今日こそその場所に行けるという期待感に胸が高鳴っていた。

カフェで顔を合わせたときの琥珀おじさまの表情に、深く注意を払う余裕もなく、

ただ浮き立つ気持ちでいっぱいだったのだ。


「ごめんね、驚かせたくて。君が来るのを、ずっと待っていたんだよ」


琥珀おじさまはそう言って、静かに微笑んだ。

そして、ガラスのショーケースの奥から、小さな箱をゆっくりと取り出す。


「これは月樹さんから預かっていたものだ。来るべき時が来たら、君に渡してほしいと託されていた」


「……おばあ様から?」


おじさまが蓋を開けると、そこには一つのペンダントが収められていた。

黒猫を象ったそのモチーフは、胸にアメジストを抱きしめるようにあしらわれており、額には小さなガーネットが紅くきらめいている。

その姿を目にした瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。

懐かしさとも違う、けれど確かに心に触れる何かが、そこにあった。


「……これを、私に?」


「うん。君も、もう二十五歳か。毎日見守っていたけど、月日が経つのは早いね」


私はそっと、春の初めのやさしい記憶が浮かぶ。

肌寒さの残る三月のはじめ、冬の気配を押しやるように吹き始めた春風に沈丁花の香りが色濃く混じる頃だった。


カウンターの上には、カラフルなマグカップとケーキ、小さな花束。

「おめでとう」と声をそろえてくれた常連たちの笑顔が、今も胸の奥にやさしく灯っている。


そんなことを思い出していたら、おじさまの瞳が静かに潤んでいるのが見えた。


「……おじさま?」


「いや、なんでもないよ。……さあ、首にかけてごらん。これは、君のものだから」


私は静かにペンダントを手に取り、革紐を首に回す。

柔らかな革の感触と、アメジストのひんやりとした冷たさが肌に触れ、

その奥からじんわりと温もりが広がっていくのを感じた。


「さ、今日はもうお帰り。君の歩むこれからに、月光がやさしく照らしますように」


そう言って、おじさまは私の背中をトンっと優しく押した。


「え、でも……私、まだ――」


まだ来たばかりだった。まだ見たい店も、出会いたい品もたくさんあったのに。

年に数回しか開かれないこの路地を、すぐに離れるなんて……。


「大丈夫、またすぐに来られるから」


琥珀おじさまの言葉は、不思議と揺るぎなく、やさしくて――

その笑顔に、私は黙って頷いた。


店の外に出たとき、夢のようだった通りはもう消えていた。

青白い光に照らされていた石畳は、薄暗く静まり返り、また現実の京都に戻っていた。


「夢……だったのかな」


けれど、胸元で静かに揺れるペンダントが、その感触が、すべてが現実であったこを物語っていた。

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