第15章:ご褒美は屋上にて
教室を飛び出した俺がたどり着いた購買部は、まさに飢えた獣たちがひしめく魔窟だった。
汗と、揚げ物の匂いと、男子生徒の野太い声が渦を巻いている。
お目当ての『プレミアムとろける窯出しシュークリーム』が陳列されたパンコーナーには、すでに黒山の人だかりができていた。
「うおっ、押すなよ!」
「日替わり弁当ラスイチ!」
「おばちゃーん、焼きそばパン追加まだー?」
怒号と悲鳴が飛び交う中、俺は人垣の隙間から必死にシュークリームの残数を確認する。
白い箱に詰められた、見るからに高級そうなソレは、飛ぶように売れていく。
残り五つ……四つ……三つ……!
やばい、このままじゃ間に合わない!
脳裏に、女王様の足と、ペロリと艶かしく光る舌がちらつく。
その瞬間、俺の陰キャとして長年培ってきたスキルが、脳内で閃光のように覚醒した。
俺は、猛獣たちの動きのベクトル、視線の先、力の流れを瞬時に読み解く。
右翼、サッカー部の集団が新発売のスポーツドリンクに気を取られた!
左翼、女子のグループが、通りかかったイケメン教師に黄色い声を上げている!
中央が、がら空きだ!
俺は、まるで存在感を消したかのように、人々の意識の死角を縫って進む。
俺の貧弱な体格が、今は最大の武器だ。
巨漢のラグビー部員の脇をすり抜け、恋バナに夢中な女子たちの間を突破する。
そして――。
残り一つ!
目の前のバスケ部員が、最後のシュークリームに手を伸ばす、その刹那!
俺は、床を滑るようにその腕の下に体を滑り込ませ、震える指で、最後の一個を、ひっつかんだ!
っしゃああああああ!
心の中で、雄叫びを上げる。
冷たいパッケージの感触が、勝利の証として、確かに俺の手の中にある。
背後から「あー!売り切れかよ、マジか!」という絶望の声が聞こえ、俺の口元は、自然と歪んだ笑みを形作っていた。
ざまあみろ、陽キャども。
これが、日陰者の戦い方だ。
◇
息を切らしながら、俺は約束の場所、屋上へと続く階段を駆け上がった。
錆びた扉を開けると、生暖かい風が、汗ばんだ俺の頬を撫でていく。
そこには、青い空と、白い雲と、そして――。
「……遅かったじゃない、私の執事くん」
フェンスに軽くもたれかかり、美月さんが一人、俺を待っていた。
風に煽られ、彼女の長い黒髪が、まるで生き物のように宙を舞う。
白いブラウスの胸元が、風を受けてはち切れんばかりに膨らみ、その下の双丘の完璧なシルエットをくっきりと描き出している。
あまりの美しさに、俺は一瞬、呼吸を忘れた。
「はぁ……はぁ……す、すいません……。これが、その……」
俺は、息も絶え絶えに、勝利の戦利品を彼女に差し出す。
美月さんは、そのシュークリームを受け取ると、満足げに目を細めた。
「ふふっ、やるじゃない。褒めてあげるわ」
その、わずかに素に近い、楽しげな微笑みに、俺の心臓は、全力疾走のせいだけじゃない、別の理由で激しく高鳴った。
彼女は、器用にパッケージを開けると、ふっくらとしたシュークリームを取り出し、小さな口で、こくりと一口。
白い生地に、彼女の赤い唇の跡がつく。
口の端についた純白のクリームを、彼女はペロリと、艶かしい舌先で舐め取った。
ゴクリ、と俺の喉が、勝手に鳴る。
やばい。エロい。めちゃくちゃエロい。
この光景だけで、白米三杯はいける。
そんな俺の邪な視線に気づいたのか、気づかないふりをしているのか。
美月さんは、にっこりと、小悪魔のように微笑んだ。
「さあ、あなたも食べなさい」
「え?」
「執事の働きにご褒美をあげる、と言っているのよ」
そう言って、彼女は、自分が一口食べた、そのシュークリームを、俺の口元へと、スッと差し出した。
いわゆる、「あーん」というやつだ。
「え、え、え、ええええええええ!?」
俺の思考回路は、ブチン、と音を立てて焼き切れた。
待て待て待て!
これって、つまり、その……か、間接キスってやつじゃないか!?
俺の、17年間の人生で、一度も経験したことのない、聖域中の聖域……!
「い、いえ、俺は、その、執事ですから! 主人様のお食事をいただくなんて、そんな……!」
「あら、私のご褒美が、受け取れないとでも言うのかしら?」
美月さんの瞳が、スッと細められる。
その瞳の奥には、逆らうことを許さない、絶対的な女王の光が宿っていた。
ああ、もう、ダメだ。
俺は、観念して、おずおずと口を開ける。
ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐる。
彼女の白い指が、俺の唇に触れそうなくらいまで近づき、そして、シュークリームが口の中に優しく押し込まれた。
サクッとしたシュー生地の食感。
口の中に広がる、冷たくて濃厚なカスタードクリームの甘さ。
そして何より、すぐ目の前にある、彼女の顔!
シャンプーの甘い香り、長いまつ毛、潤んだ瞳、ほんのり上気した頬。
その全てが、俺の五感を飽和させ、思考を完全に停止させる。
俺は、ただ、されるがままに、その甘美な供物を咀嚼し、飲み込んだ。
「……うふふ、可愛い顔。真っ赤じゃない」
満足そうに囁く彼女の声が、やけに遠くに聞こえる。
もう、ダメだ。俺の理性の防壁は、完全に崩壊した。
俺が、魂の抜け殻のようになって放心していると、美月さんは、ポン、と俺の肩を叩いた。
「じゃあ、私はこれで。……ああ、そうだわ」
去り際に、彼女は悪戯っぽく振り返る。
「今夜、執事として最低限の『お勉強』をさせてあげるから、21時にビデオ通話に出られるように準備しておくこと。いいわね?」
その言葉を残し、彼女は優雅に屋上を後にしていく。
一人残された俺は、その場にへなへなと座り込んだ。
口の中に残る、甘いクリームの味。
頬を撫でる、屋上の風。
そして、胸に刻まれた、女王様からの、新たな「予告」。
俺の平穏な日常は、もう、どこにもない。
その事実だけが、やけに鮮明に、俺の頭に響いていた。
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