第10章:限界ゲーム

「わ、わかるかって……分かるわけないじゃないですかあああああっ!」

 

 俺の悲鳴に近い叫びは、幸い(?)にして、白鳥美月さんの小さな手のひらによって強引に塞がれた。

 

「しーっ! 声が大きいわよ、田中くん」

 

 彼女は、いたずらっぽく片目をつむりながら、俺の口を塞いでいない方の手で、自分の下腹部を軽くトントンと叩いてみせる。

 その仕草が、やけに扇情的で、俺の顔はますます熱くなる一方だ。


 いや、そうじゃなくて!

 問題はそこじゃない!


「んぐぐ……ぷはっ! だ、だって、いきなり何を……!」


 ようやく口の自由を取り戻した俺は、慌てて彼女から距離を取ろうとする。

 しかし、狭い個人ブースの中だ。

 逃げ場なんてありはしない。


 それどころか、美月さんはさらにグイッと体を寄せてきて、俺の腕にしがみつくようにして体重を預けてきた。

 

「うふふ、田中くんったら、可愛い反応するのね。見ていて飽きないわ」

「か、可愛くなんてありません! それより、本当に大丈夫なんですか!? その……我慢してるとか、言ってましたけど……」


 俺の声は、完全に裏返っている。

 だって、目の前の美少女が、とんでもないことをカミングアウトして、しかもその証拠(?)を俺の手に無理やり触らせてきたんだぞ?

 冷静でいられるわけがない。


「ええ、もちろん大丈夫……じゃないわ」

 

 美月さんは、コテンと首を傾げながら、あっけらかんと言い放った。

 その表情は、どこか楽しんでいるようにも見えるし、本当に苦しそうにも見えるし……もう、俺には彼女の真意が全く読めない。

 

「朝から一度も……なの。正直、そろそろ限界に近いかもしれないわね。お腹のあたりが、キュ~ってなって、なんだか熱っぽくって……」


 そう言って、彼女は自分の下腹部に両手を当て、苦しそうに眉を顰めてみせる。

 その仕草一つ一つが、いちいちエロティックで、俺の心臓は警鐘を乱れ打っている。


 (やばいやばいやばい! これは本当にヤバい領域に足を踏み入れてるぞ、俺!)


「ちょ、ちょっと待ってください! それ、本当にまずいですよ! すぐにトイレに……!」


 俺は、必死の形相で彼女を説得しようとする。

 こんなところで、万が一、彼女が「限界」を迎えてしまったら……。


「うーん……でも、もう少しだけ、このスリルを味わっていたいような気もするのよねぇ……」


 美月さんは、潤んだ瞳で俺を見上げ、悪戯っぽく微笑む。

 その表情は、まるで「どうしてほしいか、分かってるんでしょう?」とでも言いたげだ。


 いや、知らん!

 知ってたまるか!

 俺は、彼女の「実験」とやらの、とんでもない巻き添えを食らっているだけなんだぞ!


「だ、ダメです! 絶対ダメです! 我慢とか、そういう問題じゃなくて、生理現象なんですから! ね? お願いですから、早くトイレに行ってください!」


 俺は、ほとんど懇願するように言った。

 すると、美月さんは、ふむ、と何か考えるような素振りを見せた後、にっこりと微笑んだ。


 その笑顔は、どこまでも蠱惑的で、そして、俺の抵抗を全て無にするような、不思議な力を持っていた。


「……分かったわ。田中くんがそこまで言うなら、仕方ないわね」


 え、本当か!? 助かった……!


 俺がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女はとんでもないことを言い放った。

 

「じゃあ、そこの女子トイレまで、私をエスコートしてくださる?」

「えええええええええええええええっ!?」


 俺の素っ頓狂な声が、静まり返った図書館に(たぶん)響き渡った。

 いや、響き渡ったはずだ。

 でも、もうそんなことを気にしている余裕なんて、俺にはなかった。


「な、なんで俺が、女子トイレまで……!?」

「あら、嫌なの? 私、もう立っているのもやっとなくらい、足に力が入らないのだけれど……。それとも、ここで私が限界を迎えてしまっても、田中くんは構わない、と?」


 美月さんは、わざとらしくふらついて見せながら、俺の腕にギュッとしがみついてくる。

 柔らかい感触と、甘い香りが、俺の理性を容赦なく削り取っていく。


 くっ……卑怯だ!

 女の武器を最大限に活用してきやがる!


「うぐぐ……わ、分かりました……行けばいいんでしょ、行けば……」


 俺は、観念したように、力なく頷いた。

 こうなったら、もうヤケだ。

 どうにでもなれ。


 「あ、それと、その医学書もちゃっと持って帰ってね」

 

 げ、この重そうな本も持っていかないといけないのか!?

 

 俺は、医学書を持ちつつ、美月さんの華奢な肩を支えながら、ゆっくりと個人ブースを出た。


 幸い、図書館の奥まった場所だからか、他の生徒の姿はほとんど見えない。

 それでも、いつ誰に見られるか分からないというスリルは、半端じゃない。

 俺の心臓は、バクバクと音を立てて、今にも肋骨を突き破って飛び出してきそうだ。


「あ……うぅ……」


 隣を歩く美月さんから、時折、苦しそうな、それでいてどこか甘い吐息が漏れる。

 その度に、俺の背筋にはゾクゾクとした悪寒が走る。


 頼むから、ここでだけは、絶対に「限界」を迎えないでくれ……!


「大丈夫ですか……? もう少しでトイレですよ……」

「……うん……なんとか……でも、ちょっと、足が……もつれちゃって……」


 美月さんは、か細い声でそう言うと、さらに俺に体重を預けてくる。

 もはや、俺が彼女を支えているのか、彼女が俺に寄りかかっているのか、よく分からない状態だ。

 傍から見たら、さぞかし仲睦まじいカップルに見えることだろう。

 

 ……実態は、いつ爆発するか分からない爆弾を抱えたテロリストと、その人質みたいなもんだけどな!


 数メートルが、まるで数キロメートルにも感じられる。


 ようやく、女子トイレの入り口が見えてきた。

 あのピンク色の可愛らしい看板が、今の俺には、まるで砂漠で見つけたオアシスのように輝いて見える。


「あそこです! あそこがゴールです!」

「……うん……ありがと、田中くん……。もう、本当に、ダメかも……」


 美月さんの顔は、ほんのりと赤く染まり、瞳は潤んで、呼吸も少し荒くなっている。

 その姿は、正直、めちゃくちゃ扇情的で、俺の理性のタガが外れそうになるのを必死に抑え込む。


 今はそんなことを考えている場合じゃない!


 ようやく女子トイレの前にたどり着いた俺は、美月さんの体をそっと壁にもたれさせると、一歩後ろに下がった。

 

「ど、どうぞ……。俺は、ここで待ってますから……」

「……うん。本当に、ありがとう……。田中くんが、いてくれて……よかった……」


 美月さんは、潤んだ瞳で俺を見つめ、か細い声でそう言った。

 その言葉と表情に、俺の心臓は、またしても不覚にもキュンと高鳴ってしまう。

 

(いやいやいや! 騙されるな、俺! この人は、そういう演技がめちゃくちゃ上手いんだぞ!)


 自分にそう言い聞かせていると、美月さんは、ふらつく足取りで、ゆっくりと女子トイレの中へと消えていった。


 パタン、と個室のドアが閉まる音。

 そして、数秒の沈黙の後――。


「んっぅぅぅぅぅぅぅーーーーーーーーーっ……♡」


 女子トイレの中から、それはそれは深くて、長くて、そして心の底から安堵したような、美月さんの吐息が、微かに、しかしハッキリと聞こえてきた。

 その声には、隠しようもないほどの解放感と、そして、どこか恍惚とした響きが……。


 俺は、その場にへなへなと座り込みそうになるのを必死にこらえながら、両手で顔を覆った。


(ああ、もう、俺、どうなっちゃうんだろ……)


 聞かなきゃよかった。いや、聞くべきじゃなかった。

 でも、聞いてしまった。

 

 美月さんの、あの、究極の安堵の声を。


 俺の、波乱に満ちた昼休みは、まだ終わる気配を見せていなかった。

 それどころか、さらなる嵐が近づいてきているような、そんな嫌な予感だけが、俺の胸の中に渦巻いていた。

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