第2話 夏の思い出
八月、夏祭りの夜。
町は提灯の赤い光と、屋台のざわめきに包まれていた。
けれど、榊原悠真は、あえて人混みを避けて、あの丘へ向かっていた。
春に出会った少女――沙月。
彼女にもう一度会える気がして、そう、胸がざわついていた。
丘に登ると、そこは夏の夜に沈んでいた。
満開だった桜は当然もうなく、ただ静かに草が揺れている。けれど、その中で、あの一本だけ残る桜の木が月明かりに照らされていた。
そして――その木の下に、誰かがいた。
「来てくれると思った」
悠真の足が止まった。
白い浴衣に、薄紅の帯。どこか儚く、それでいて不思議と惹かれる佇まい。彼女は沙月だった。間違いない。顔は覚えられなくても、その“存在”だけは、絶対に忘れられなかった。
「……どうして、ここに?」
「体調が少しだけ良くてね。お医者さんにお願いして、短い外出許可もらったの。夏祭りに行きたいって言ったら、看護師さんが浴衣まで貸してくれた」
「祭り……じゃなくて、ここに来たの?」
「うん。君が、ここにいるような気がしたから」
その言葉に、悠真は返す言葉が見つからなかった。
ただ、沙月の隣に静かに腰を下ろした。
ふたりの間を、涼しい夜風が通る。
遠く、どこかのスピーカーから祭囃子が風に乗って聞こえてくる。街の明かりが下のほうでまたたき、夜の空が静かに息を潜めていた。
そして――
「上を見て」
沙月の声に、悠真が顔を上げると、夜空に大輪の花が咲いた。
ドンッ……
遅れて響く音。
大きく、広がって、すぐに儚く消えていく――でも、それは確かに存在していた。
桜の枝の隙間から、色とりどりの花火が空を染めていた。
「きれい……」
沙月がぽつりとつぶやいた。
「ねえ、悠真くんは、花火って、全部同じに見える?」
「……え?」
「だって、人の顔が全部同じに見えるって、言ってたでしょ? 花火も、そうなのかなって」
悠真は少し考えて、首を横に振った。
「違う。花火は、一瞬で消えるけど……色も、形も、ちゃんと違うって思える。でも……」
「でも?」
「君だけは……たぶん、違う。顔は思い出せないのに、“君”ってわかる。なんでかは、わからないけど」
花火が消えると同時に、辺りが沈黙に包まれる。
しばらくして、沙月がそっと言った。
「それって、すごく嬉しい」
花火が次々に打ち上がり、空がにぎやかに光っていた。けれど、悠真はそれ以上に、隣にいる彼女の存在が鮮やかだった。
「来年の夏も……こうして一緒に花火、見られるかな」
ふと、悠真が口にした言葉に、沙月は目を伏せて、少し笑った。
「うん、見たいな。でも、それは……神さま次第かな」
「……やめてよ、そういうの」
「ごめん。でもね、ちゃんとお願いする。絶対に、来年もここで見られますようにって。だから悠真くんも、お願いして」
「しなくても、俺は来る。絶対、来る」
「……ありがとう」
夜空の花が、最後のひとひらを咲かせた。
その光の中で、沙月の横顔がほんの一瞬、輪郭を持ったように見えた。
「綺麗だ……」
「え、なんて?」
「なんにも無い!」
そうして短い夏の思い出は過ぎて行った。
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