第6話 眠り・2

 俺は二つに別れた路地を右に曲がる。その左手にはどこまでも続く高い壁が背後、前方へと続いている。

 壁にはグラフィティが所狭しと描かれている。その文字なのか絵なのか分からない文様が、不規則に並んだライトに照らされて、鮮やかさを取り戻す。

 俺はそれを眺めながら歩く。

 街灯の間の闇はグラフィティを見えなくした。塗料のわずかな凹凸にハイライトが反射して、なぜだか俺は泣きたくなった。描いた者の悲痛。そんなアンニュイさを感じ取ってしまう。そんな自分に気づいてなぜだか嗤ってしまう。

 きっと、彼らにとって行き場のない感情をこの壁にぶつけているのだろう。

 あるいは、彼ら自身何も感じていない。無機質な壁に塗料をブチ撒けることで、自分を確認してるのだろう。

 俺はその壁を指先で触れながら歩いた。どこも視るまでもなく、彼らの尖った繊細さと共に俺は前へと進んでいく。

 ライトの間隔が広がっていき、光で分かれた闇が広くなっていく。暗がりのグラフィティは乱雑に、もはや文字の形を成していない。何かを残したい、誰にも見つからないように。そんな意志だけが感じ取れる。

 遠くの方に灯りが見つかる。グラフィティはけばけばしい彩度を取り戻していた。

 男が一人、壁を背にして、座り込んでいる。首を垂れて、足を前方に放り出していた。ライトの向こう、夜の中から、女の影が浮かび上がるように近づいてくる。

 あの、赤く発光した女。

 女は倒れた男に近づく。頭に手をかざすと、男の体中から血があふれ出す。

 俺は夢でも見ているのではないかと思った。

 彼は瞬く間に赤黒い塊になって、融けていくようにアスファルトの血だまりとなった。

 一瞬、足を止めてしまう。

 女はこちらに向き直り、何か言葉を発した気がする。

 音ではない。それでも、彼女の言っていることが分かった気がする。

 ――いつか、会っているよ。

 頭の中で意味が構築されて、女は俺に手を振った。別れのようでありながら、再会を約束するような拒絶のよう。

 女の体は発光し、輪郭がぼやけ、炎の様に蠢いた。そしてひと際燃え上がり、虹彩に女の赤が焼き付いた。

 血の色一色に染まる視界。そして次第にグレーに漂白されていく。まるでブラウン管モニタのホワイトノイズ。

 その刹那、もやに包まれた朱い欄干の橋と、それを渡る男と女の姿を遠巻きに見た。

 女は、こちらに気づいて、視線を向ける。先ほどの女の顔つきが見えたならば、こんな感じかもしれないと思ってしまった。

 この女に出会ってみたいと思ってしまった。

 女は人差し指を下に向ける。

 不意に足元を見た。

 空中、上空、白に包まれたもやの中。

 自覚した瞬間、俺は水面に向かって、墜落していく。

 ――心臓が飛び跳ねる。

 バクバクした胸を押さえながら、ぎょろぎょろと辺りを見回した。

 気づくと俺はあのグラフィティの路地にいる。どこまでも続く壁。不規則にぶつけられた感情の澱。

 俺は眠ってしまっていたようだ。

 後ろを振り返るも、通ってきた道の、ライトは見えない。

 あの街のことも覚えていない。

 ――俺はどこかに帰りたかったはずだった。

 そんなことをぼんやりした頭で思い返す。

 俺は壁に背を付き、下腿はアスファルトの血だまりに塗れている。あの時の男と同じように。立ち上がり、キャメルのカーゴパンツと地面との間に、僅かに細く、赤い糸を引く。

 立ち上がって、ライトの見える方へ体を向ける。

 足下に、なにやら見慣れたパックが落ちていた。――いつも俺が吸っている銘柄。

 俺は血だまりの中からソフトパックのタバコを拾い上げる。

 カーゴのサイドポケットにあるフリント・ライターを取りだした。タバコを咥え、火を付ける。

 ――体に染みついた動き。それが自分を取り戻させてくれる。

 深く、肺に入れ、薄くなった煙を吐いた。煙はライトを乱反射させて、淡い光の輪郭が浮かび上がる。

 再び短くなった一本を口に咥える。

 奥の方で犬の太い鳴き声が聞こえて、高い壁に残響した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ホワイトノイズと黒犬 アオイオ @_aoio_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る