煙雨
川上いむれ
第1話
僕は駅のベンチに座っていた。その駅には屋根がなく、しとしとと降る雨にぼくは身を濡らせるがままにしていた。
僕は知らせを待っていた。それが終わるという知らせを。
胸ポケットから携帯用ラジオを取り出し、電波を受信する。
『ガー……6月7日現在…ガー……統合司令本部は…ガガー……全戦線において我が軍は…ガー……』
僕はラジオの電源を切った。その知らせは今日も来なかった。
その時、誰もいない駅に一人の女性がやって来た。彼女は僕と違って傘をさしていた。僕と背中合わせになる形でベンチに座る。
「あなたは傘をお持ちではないのですか?」
その女性が話しかけてきた。僕は短く答える。
「ええ、僕にはいらないんです」
相手は少しの沈黙ののち、僕にこう尋ねた。
「失礼ですが、この国の方ではありませんね。どのようにしてこの国にいらっしゃったのですか?」
その答えは決まっていた。だけど僕にとってそれを言うのは心苦しい事だった。
「……三年前、僕の故国で戦争が始まりました。その国の男たちはみな兵士に取られる事になっていました。でも僕は募兵に応じなかった。郷土を捨ててこの国に逃げてきたんです」
相手は答えない。僕は続ける。
「今、母国の短波放送を受信していたんです。戦争が終わったという知らせが聞けないかと思って。でもその知らせは今日もありませんでした」
雨は強くも弱くもならず、降り続けていた。遠くの景色がかすんで見える。相手は気の毒なようにこう言った。
「それはお辛いですね…。生まれ育った土地を捨てなければいけないことほど辛いことはないでしょう」
……僕は心の中で笑った。彼女の言うことは半分は当たっており、半分はまるで違っていた。
「──こんな言葉があります。ある種の人間は絶望で気晴らしをするのだと。彼らにとっては希望より絶望の方が気に入るのです」
相手は怪訝そうに聞き返す。
「……それがあなただと言うんですか?」
「ええ──そうかもしれません。僕は戦争が終わるという知らせを待っています。でも、それと同じくらいそれが終わらない事を望んでいるのかもしれません」
その時、大きな音を立てて汽車がプラットフォームにやって来た。煙を上げる鉄の車を見て、相手は立ち上がった。
「私──もう行きますね。あなたは乗らないのですか?」
僕は答えなかった。雨のしずくが顔をつたい、視界を曇らせる。僕の体はもはや濡れそぼっていた。
「……」
相手は諦めたように首を振り、汽車に乗り込んだ。汽車が出発し、僕は一人駅に残された。
やれやれ。僕は再びラジオの電源をつけようとした。
──その時、僕は目の前に誰かが立っているのに気付いた。さっきの女性だ。
「……汽車に乗ったんじゃないんですか?」
僕は驚いて尋ねた。相手は答える。
「あなたは傘を持っていないでしょう?そのままホームに置いていくのが忍びなかったので降りてきてしまいました」
「……次の汽車はいつ来るか分かりませんよ」
相手は首を振った。
「構いません。私は待てますから」
彼女は僕の隣に座った。二人が雨に濡れないように傘を頭上に差す。僕は彼女の腕が疲れるのではないかと思って、交代を申し出た。
「はい、どうぞ」
彼女は笑顔で傘を渡した。
──僕らは次の汽車が来るまでずっとそのホームにいた。雨はいつまでも止まず、目の前の景色は霧と雨で烟ったままだった。
煙雨 川上いむれ @warakotani
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