備忘録:長谷川恵と旧校舎にて


 いつかの夕刻。

 長谷川恵との会話の記録をここに記録しておく。


 淡い橙色が差し込む教室。

 等間隔で並べられた机。

 何も書かれていない黒板。

 もうここには僕と長谷川以外、誰もいない。


「倫太郎さんは、ずっと何を描いてるんですか?」


 言われて初めて気づく。

 僕の手元の机の上には、一枚の紙が置いてある。

 右手にはペンを握っていて、ラフ画のようなものが描かれていた。


「ああ、これ? これは漫画だよ」


「へえ。そうなんや。めっちゃ上手ですね」


「そう? ありがと」


 僕の口は、僕の思考を遠くに置き去りにしたまま喋っている。

 俯瞰のような感覚。

 自分自身なのに、どこか他人事で放課後の教室を眺めている。


「そんだけ上手なら、将来は漫画家にでもなるん?」


「どうだろうね。僕は不器用だから。難しいかもしれない」


「不器用って、どこがですか。めちゃ器用に絵、描いてるやん」


「漫画ってさ、絵を描くだけじゃなくて、物語も考えなきゃいけないでしょ?」


「そういうんは苦手ってことですか?」


「いや、脚本みたいな感じで、文字を書くのも好きだよ」


「なら、できるやん」


「ただ、同時にやるのが、難しいと思うんだ」


「絵を描きながら、物語を創るのが、嫌やってこと?」


「嫌っていうか、難しい。多分、どっちかしかできない。両方やろうとしたら、どっちも中途半端になる気がする。僕は不器用だからね」


「そうなん? そういうもん?」


「だからきっと、僕にやれるとしたら、イラストレーターか小説家の、どっちかだろうね。漫画家にはなれない」


「へえ。まあでも、そのどっちかでも、十分凄い」


「凄くはないよ。それが得意なだけ」


「不器用やけど、嫌味な人やな」


「嫌味になってないだろ。そもそもまだ、僕は高校生だし、別にイラストレーターにも小説家にもなれてない」


 僕は高校生?

 ぼこぼこ。

 水中で息をしたような感覚。

 泡が溢れて、水面を揺らす。


「そういう長谷川は何をするのが好きなの?」


「うちですか?」


「そう。絵も描かないし、小説も書かない長谷川は、何が得意なのかなって」


「倫太郎さん。嫌な奴すぎません?」


「そうかな。良い奴だと思うけど」


「自分で言うな」


 長谷川が笑う。

 彼女の笑顔は、時々寂しそうに見える。

 何も置いていない机の上を指でなぞりながら、長谷川は僕の方を真っ直ぐと見つめる。


「うちは特に、夢とかないかな。普通に会社員やって、山も谷もない穏やかな毎日を過ごせたらそれでいいです」


「そっか。謙虚だね」


「べつに謙虚とかじゃないですよ」


「まあ長谷川は頭良いもんな。いい大学行って、いい会社行って、いい暮らしをする。それも立派な将来だよな」


「なんか馬鹿にされてる気がするんやけど」


「それはさすがに被害妄想だよ。普通に褒めてる」


「倫太郎さんが言うと全部皮肉っぽく聞こえるん何でやろ」


「捉え方の問題だよ。斜に構えた奴から見た真っ直ぐなものは、斜めに見えるんだ」


「はいはい。そういうことにしておきましょか」


 また、寂しそうに笑う。

 そこで一度口を噤むと、長谷川は椅子を引いておもむろに立ち上がる。

 窓は開いていないのに、柔らかな風が吹く。

 揺れる紺色のスカート。

 涼しげなワイシャツ姿の彼女は悪戯気な表情で、わざとらしく首を傾げる。



「ところで倫太郎さん、ちょっと今から、旧校舎に行かへん?」





 新校舎の北廊下。

 今はもう使われていない旧校舎に繋がる扉の前に立っている。

 遠くからひぐらしの鳴き声が聞こえてくる。

 ここで初めて、僕は今が夏の暮れなのだと気づく。

 

「鍵、よく借りれたね」


「うち、優等生やから」


 旧校舎は老朽化が進んでいて、あとは建築物の中にアスベストが含まれているとか何とかで基本的には立ち入り禁止になっていた。

 そんな旧校舎の鍵を教員から借りてきたらしい長谷川は、手際よく解錠している。


「開きました。行きましょ、倫太郎さん」


「あ、うん」


 長谷川に言われるがままに、僕は旧校舎の北廊下に足を踏み入れる。

 廊下は埃を被っていて、何となくカビや下水っぽい匂いがした。

 夕方という時間帯のせいもあってか薄暗い。

 

「ここに何の用があるの?」


「人探しです」


 人探し。

 誰を探しているのかまでは、長谷川は言わなかった。

 通りがかった化学準備室。

 立て付けの悪い扉を横にスライドさせて、僕らは暗幕のかかった部屋を見回す。

 すると視界の隅に、何かが違和感を覚えた。


「ねぇ、今、あそこ、何か動かなかった?」


「……ほんまにそういうのやめてください」


「いやいや、本当に」


 少しひんやりとした空気。

 僕は部屋の中を進んでいく。

 棚の中に綺麗に並べられたビーカーの類。

 洗い場付きの黒い机と背もたれのない角椅子。

 気配を感じた方に進んでいくと、また何かが動いた。


「あ」


「な、何ですか?」


 それは放置されたアルコールランプの裏側にいた。

 最初は虫か何かかと思ったが、よく見ると違う。

 小さく、角ばっていて、そろそろと横移動する灰黒の生き物。

 

「沢蟹だ」


「は? カニ?」


「うん。沢蟹だね」


「なんでこんなところに?」


「さあ?」


 沢蟹。

 学校の校舎にいるには不釣り合いな生き物。

 何かのミステリードラマで、見覚えがあるのを思い出す。

 確か沢蟹は、死肉を貪る生き物だ。

 沢蟹の群れを追いかけたら、海の浜辺に打ち上げられた死体に辿り着いた景色が目に浮かぶ。


「探してたの、もしかしてこいつ?」


「“人”、探し言うてるやろ」


 僕らから見つかってないと思っているのか、ぴくりとも動かない沢蟹から目を逸らして、化学準備室を出る。

 廊下は先ほどより、余計に暗くなった気がする。

 視界が悪く歩幅が狂ったのか、長谷川の柔らかな肩が触れる。

 上目遣いで、僕を見て微笑む彼女。

 

「なんか、肝試しみたいやね」


「確かに、ちょっと興奮してきた」


「興奮言うな。キモすぎやろ」


「手厳しいな」


 鼻腔をくすぐる、制汗剤と整髪料が混ざったような甘く涼しげな香り。

 不意な胸の騒めきをユーモアで誤魔化して、僕は沢蟹より早く歩く。

 誰もいない旧校舎。

 僕と長谷川は油汚れが見える階段を登る。


「でも、灰色の青春を過ごしてる倫太郎さんにとっては、中々得難い経験なんやない?」


「どういう意味かわからないけど、なんか失礼なこと言われている気がする」


「こんな美少女と二人で、放課後の学校を散策なんて。めっちゃ青春やん」


「確かに。美少女、だったらそうかも」


「は?」


「ごめんなさい。なんでもないです」


「ほんまそういうとこやで?」


 照れ隠しに悪態をついた僕を、心の広い長谷川は笑って許してくれる。

 辿り着いた二階。

 相変わらず人の気配はどこにもしない。


「倫太郎さんって、人のことを好きになることとか、あるんですか?」


「当たり前じゃん。博愛主義者だよ僕は」


「そういう意味やなくて。わかってて話逸らさんでください。面倒くさい」


「すいませんでした」


 長谷川は呆れたように溜め息を吐く。

 だけど僕は確かに質問の意図を理解しながら話を逸らしたが、べつにそこまで的外れな答えを返したつもりはなかった。

 好意と友愛は僕にとって、非常に近しいものだ。

 

「恋愛的な意味でって、ことだよね?」


「そうです」


「難しい質問だね。僕からすれば、あるっていうのが回答だけど、そもそも僕にとって友情と恋愛感情は結構似ているっていうか、同じようなライン上にあるから」


「そうなんですか? 最初は友達でも、後から恋愛的に好きになるタイプってことですか? 結構意外やな。倫太郎さんこそ、そういうのハッキリ分かれてるかと思うてた」


「そういう長谷川はどうなの?」


「うちは分かれてるタイプです。友達は友達やし、好きな人は好きな人。枠が違いますね」


「つまり男女の友情は成り立つ派だ」


「まあ、そうですね。枠が違うもん。倫太郎さんは成り立たないってことか」


「成り立たないって言うか、漸移的というか。境界線が曖昧だし、はっきり分けるのも何か違うかなって思うんだ」


「どういう意味ですか?」


 僕と長谷川の声だけが反響する廊下。

 遠くに非常口の蛍光色が見える。

 どこか壁が壊れているのか、なぜかある水溜り。

 誰を探しているのかもわからないまま、僕は長谷川に自らの価値観を語っている。


「友達ってことは、ある程度リスペクトできる点があるし、人して好きなところがあるわけでしょ? つまり友人っていう枠にある時点で、形はどうあれ僕にとって尊敬できる相手なんだ。そんな相手を、恋愛的な感情は向けられない、枠が違うって言い切ってしまうのは、何だか失礼な気がしてしまうんだ」


「失礼? そうですかね」


「反対の立場で考えれば、ずっと友達だと思っていた相手に、あなたに絶対に恋愛的な感情は抱きませんって断言されたら、それがたとえ事実だとしても、なんとなくちょっと嫌な気持ちにならない?」


「なるかなあ」


「長谷川こそ、うちこそあんたのことなんて友達としか思ってません、みたいにムキになりそうじゃん。ムキになってる時点で、若干苛立ってるんだよ」


「ちょっと、想像上のうちで勝手に話を進めないでください」


「だから友情と恋愛感情をはっきりと分けすぎるのは、大切な人を少し不愉快にさせるかなって思ってる。なら、曖昧でいいかなって。友達だと思ってるけど、もしかしたら何かのきっかけで恋愛として好きになってしまうかも、それくらい魅力的な人だから、ってのが僕の感覚だよ」


「ふーん? そうなんや。わかるような、わからへんような。やっぱ倫太郎さんはややこいな」


「人間はみんなが思ってるより、複雑な生き物なんだよ」


「複雑なのは、倫太郎さんだけちゃう?」


 僕以外の人は、もっとシンプルなのだろうか。

 表か裏か。

 灰色はなく、黒と白しかない。

 男の人は女の人を愛し、子供を作り、家を建て、時々犬か猫を飼う。

 本当に、それだけか?

 それとも、シンプルの基準が、僕より広いのか。

 男が男を犯し、女が女を嫉妬で傷つけ、子供を殺し、時々オオサンショウウオを飼う。

 これもシンプルの範囲か?

 段々と思考が散文的になっていく。

 繋がりが薄まり、突飛な発想が流れ星のように現れては消える。


「要するに、倫太郎さんは、うちのことも好きになるかもしれへんってことか」


「まあ、そうなるね」


「へえ」


「なんだよその顔は」


「べつに? 普通ですけど」


「絶対に長谷川に惚れることはない、って今僕が言ったら、若干腹立たない?」


「……一理あるかもしれん」


「ほらね。だから、僕は灰色でいいんだ」

 

 やっと僕の感覚の一部が伝わったのか、長谷川は僅かに悔しそうな表情を見せる。

 二階の廊下の突き当たり。

 どの部屋にも誰もいる気配はなかった。

 もう一度、階段を上がる。

 次で最後だ。

 旧校舎は三階建てだった。


「でも、大丈夫だよ」


「何がですか?」


「僕は友人を困らせることはしない。僕が大切な友人を好きになって、相手が困るなら、その人を好きになることはない」


「……相手が困るかどうか、わかるんですか?」


「わかるよ。だって僕はその人と、仲の良い友達だからね」


 旧校舎の三階も、他の階と特に変わりはない。

 ただ、気温が少し下がった気がした。

 僕にとってこの世界は難解で、複雑に絡み合っている。


「それって——」


 ——ぽた、ぽた。

 どこからか水滴の落ちる音がする。

 僕に何かを言おうとした長谷川は、途中で口を閉じて、耳を澄ます。


「なんか、聞こえへん?」


「聞こえるね」


 数秒間、お互いに沈黙し音の出所を探す。

 ぽた、ぽた、ぽた。

 ゆっくりと、断続的に響く小さな音。

 吸い寄せられるように、先に長谷川が動く。


「こっちやな」


 やがて辿り着いたのは、他に比べて少し狭い部屋だった。

 物置か、倉庫だろうか。

 曇りガラスになっていて、部屋の内側は見通せない。


「誰か、いる?」


 ぎぃ、と擦れた音を立てて開いた扉。

 細長い奥行きのある部屋。

 真っ暗闇でよく見えないが、一番奥に人影が見える。

 

「あ」


 ぽた。

 ぽた。

 ぽた。

 声を漏らしたのは、僕の方。

 長谷川は、夜の湖に似た、暗くて穏やかな瞳をしている。

 狼狽えることもなく、怯懦を抱くこともなく、その足を床から浮かせたをじっと見つめている。


「やっぱしお兄ちゃん、ここにいたんやね」


「え?」


 だらりと弛緩した肢体。

 青黒く変色した腕が、力なく垂れ下がっている。

 額の形が不自然に歪んでいて、左側頭部の髪が皮膚ごと一部分剥がれ落ちている。

 剥き出しになった脳味噌から、ぽた、ぽた、と血が滴っている。

 首には縄が巻き付けられていて、何を思ったか長谷川が胸を押せば、ぶらんと気色悪い揺れ方をした。


「長谷川、探してたのって——」


 ——ゴツ、と次の瞬間、いきなり頭部に凄まじい衝撃がかかった。

 気づけば身体が埃まみれの床に倒れていて、僕は混乱しながらも後頭部に手を伸ばす。

 

「酷いなあ。殺さんでもいいやん」


 ぬちゃあ、とした生温い感触がした。

 痛い。

 痺れるような痛み。

 後頭部を摩った僕の手には、真っ赤な血がこびり付いている。

 点滅する視界。

 なんとか頭を振り返らせれば、僕の立っていたところの背後に、男が一人立っていた。


「あんたが殺したんやろ?」


 男はやけに背が高い。

 身長2mはあるかもしれない。

 左手に角ばった木材のようなものを持っている。

 あれで頭を叩かれたのだろうか。

 木材は赤く濡れている。

 それを持つ男は何も言わずに、長谷川の方をただぼんやりと見つめている。


「じゃあ、しゃあないか。倫太郎さん、こいつ、殺してもらってもいいですか?」


「……え?」


「殺して欲しい」


 掠れた声が、僕の喉から漏れる。

 その後、唐突に長谷川は走り出す。

 反応するように背の高い男が、また木材を振り回す。

 驚異的な反射神経で交わすと、長谷川は男の背中に飛び乗るような体勢を取り、思い切り首元を腕で締める。


「倫太郎さん! 今や! 殺して!」


 殺す?

 苦しそうに悶える男の手から、木材が落ちる。

 暴れながら、男は長谷川の手を必死で取り払おうとしている。

 爪を立て、彼女の艶やかな白い肌に赤い跡が滲む。

 転がり落ちた木材には、やはり僕の血がついている。


「殺せ! 倫太郎さん!」


 殺せ?

 僕の日常には普段出てこない、剣呑な言葉。

 言われるがまま、僕は木材を手に取る。

 後頭部の痛みは引かない。

 朦朧とする意識中、やっとのことで立ち上がる。


「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」


 連呼される殺人のコール。

 どうしてこうなった?

 つい数秒前まで、僕は僕らなりの、僕らだけの青春の中にいたはずなのに。

 この首を吊られている死体はなんだ?

 どうして僕は殺人を迫られている?

 これは現実か?


 ——これは現実か?


 そこでやっと、初めて、これが現実じゃない可能性に思い当たる。

 もっと早く気づくべきだった。

 僕の中から迷いが消える。

 夢なら、殺してもいいか。


「殺せ」


 殺せ。

 殺せ。

 殺せ。

 殺せ。

 殺せ。

 長谷川が殺人を僕に頼む。

 頼まれているなら仕方がない。

 どうせここは夢の中だ。

 人の一人や二人殺しても、いいだろう。


「うん。わかった。殺すね」


「ありがとう、倫太郎さん」


 長谷川が僕に感謝している。

 それが僕は嬉しかった。

 滅多に人に頼らない後輩の頼み事を、叶えてあげることができる。

 

 背の高い男の、空洞のような黒い瞳。


 角材を構える。

 迷いなく、思い切りフルスイングする。

 角が眼球に当たって、ぐちょりという柔らかいものを潰す感触がした。

 念の為、僕はもう一度男の頭を殴る。

 身体は大きいが、頑丈さは普通の人間と同じみたいだ。

 簡単に崩れ落ちて、床に倒れる。

 この体勢なら、もっと殴りやすい。

 僕は角材を三度、振り下ろす。


 ぐちゃ。


 頭蓋が潰れて、中身が溢れ出す。

 静寂が戻る。

 返り血を浴びた長谷川が、座り込みながら、僕を見上げている。

 べっとりとした脂汗。

 髪が額に張り付いて、鬱陶しい。

 でも、気分は悪くなかった。

 彼女が、僕に微笑みかける。

 二つの死体の間で、僕らは見つめ合う。



「ありがとう、倫太郎さん」


 

 ここまでが可能な限り思い返して書き残した、長谷川恵との旧校舎での会話の記録となる。


 

 

 

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