備忘録:長谷川恵と京都にて
2025年4月12日土曜日。
会社員時代の知人である長谷川恵との会話をここに記録しておく。
京都駅向かいのヨドバシカメラ近辺で待ち合わせ。
待ち合わせ時間は11:00。
20分前に到着した僕は、日本人より外国人の方が多く見える古都の風景をぼんやりと眺めて待つ。
“着きました。黄色のアクアです”
10:55に長谷川からLINEが届く。
周囲を見渡してみれば、京都の街でも目立つイエローの車が目に入って、運転席で面長の顔をした女性が小さく手を振っていた。
「お久しぶりです、倫太郎さん。痩せました?」
イエローのアクアの助手席に乗り込むと、金木犀のような香りがした。
最後に会った時に比べてより一層明るくなった茶髪の長谷川は、僕がシートベルトをするのを確認すると、すぐに車を動かし始める。
「久しぶり。悪いね。貴重な休みの日に」
「いやほんとに。先月のうちの残業時間、聞きます?」
「45?」
「75です」
「お、おう。なんか働き方改革とか言ってなかったっけ?」
「革命家は死にました」
「そうなんだ。ご愁傷様」
「辞めて正解ですよ、こんな会社」
吐き捨てるような長谷川の言葉。
文筆業、ライター業になる前の前職で僕と長谷川は先輩と後輩という関係性だった。
業界は建築業界。
旧石器時代をいまだに生きている向き不向きの大きい業界で、僕は不向きの側にいた。
「長谷川も辞めれば?」
「まだ奨学金も返してないし、辞めれないです。倫太郎さんみたいな才能もうちにはないしな」
「まあね」
「いや否定せえへんのかい」
「ふふっ。懐かしいな。長谷川のその感じ。唯一辞めて後悔してるポイントかも」
「笑ろてる場合じゃないですよ。慰めてください」
「よしよし」
「やかましいわ」
僕は3年間ほど会社員をした後に退職したが、僕にとって最初で最後の後輩が長谷川だった。
先輩や同期ともあまり打ち解けることのできなかった僕の数少ない、退職後にもプライベートでも連絡を取れる相手が彼女だ。
「それで倫太郎さんはどうして急に滋賀に? うちの親に挨拶すること以外になんかやることあるんですか?」
「まあそれもあるけど、仕事だよ」
「自惚れないでください。既成事実は作らせませんよ」
「めんどくさいな」
「めんどい言うな。傷つくんですけど」
「長谷川ってあんまり心ない系だから、大丈夫でしょ」
「心ない系ってなんですか」
ほとんど変わらない無愛想な表情。
愛嬌のある性格のわりに、昔からまるで感情が顔に出ないタイプだった。
「仕事ってことは、小説ですか」
「大体そんなこと」
「足にまでしておいて、そこぼかすことあります?」
「守秘義務があるからね」
「怪しいなー」
赤信号で停止。
流し目で長谷川が僕の方を睨んでくる。
彼女は滋賀県出身だ。
関西支店所属で勤務先は京都市内だということは知っていたので、近くまで行くついでに、特に深い理由はなく久々に飲みに行こうかと誘った結果、滋賀まで一緒に付き合ってくれるというのが今回の流れだった。
「まあ小説のための取材みたいなもんだよ」
「取材ですか。確かによく聞きますね。ってことは、次の小説は滋賀が舞台ってことですか?」
「そうかもね」
「おー。それは結構熱いかもです。うちの地元があの天下の売れっ子小説家、佐伯倫太郎の新作の舞台になるなんて」
「これで売れなかったら、滋賀のせいだな」
「ちょっと現実味あること言うのやめてください」
青信号で発進。
会話が途切れ、しばらく景色を眺めるだけ。
京都からちょっと離れるだけで、視界の中に緑が増えていった。
「こっから滋賀ってどれくらいかかるの?」
「大津とかなら30分もかからんけど、倫太郎さんが行きたいのって彦根の方ですよね? そこまで行くなら一時間くらいですかね」
「今日泊まる予定なのが彦根市ってだけ。目的地は東近江だったかな」
「ならもっと遠いわ。てか、また変なところ行きますね。せっかく滋賀来たのに、全然琵琶湖見やんやん」
「言うてただの湖でしょ」
「あ、今、うちらの琵琶湖を馬鹿にしましたね? 琵琶湖に沈めましょか?」
「そんな東京湾みたいな言い方しなくても」
今回目指している先は、より正確に言えば政所町というところだ。
チャットGPTに聞いたところによれば、どうやらお茶の名産地として有名らしい。
「というか長谷川はどこまで付き合ってくれんの? 何時帰り?」
「今日は倫太郎さんが満足するまで案内し倒しますよ。帰りは実家行くんで、何時でもいいです」
「ほー、やる気だねぇ」
「ホームグラウンドですからね。アップオーナイです」
「頼れる後輩だ。持つべきものは長谷川だよ」
「同感です」
気軽な会話。
山と山の間を摺り抜けていく。
片手で数え切れる程度しかいない友人の一人が、滋賀にゆかりがあることは幸運だった。
「そろそろ滋賀入ります」
「まじか。案外近いね」
「そうですよ。皆さん気づいてないだけで、実は滋賀はあなたのすぐ傍にいるんです」
「滋賀、恐るべし」
11:19。
京都から滋賀へ。
くだらない馬鹿話と共に、あっという間に県境を過ぎ去っていった。
ここまでが可能な限り思い返して書き残した、長谷川恵との京都での会話の記録となる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます