第11話 最終日(山内涼音)

 三人で一緒に歩いているのは不思議だ。そう思いながら歩くたびに、地面の水滴が飛び散る。今日は天気予報でもしきりに雨が降ると言っていたはずなのに何故だか私は傘を持参せずに学校まで来てしまって、窓の外から漂ってきた雨の香りを感じてようやく思い出した。

 私の両脇には二つの傘が差してある。それぞれを泰輝くんと笠岡くんが握っている。私は二人の差す傘どちらにも守られて濡れないまま歩いている。けれども中心に立っていると二つの傘の露先から雨の滴が垂れてくるので少しだけ片方に寄らないといけない。どちらに寄るべきか、私は一人で考えている。私の心がその狭間で揺れている時点でそこに答えがあるのだが今だけは、、泰輝くんの傘に入ろうと思っている。

 コンビニの前を通過した時に笠岡くんは自分のこめかみを抑えた。

 「どうしたの?」

 と私は少し顔を顰める笠岡くんを心配に思い、聞いた。

 「偏頭痛で頭痛い。」

 彼は目を閉じながらこめかみをさする。そして遠くを見ながら一度立ち止まった。

 「今どんな痛さがあるの?」

 一緒に立ち止まった泰輝くんが顔を覗き込んでそう聞いた。寄り添おうとするその聞き方がいかにも新鮮だった。

 「痛みが深い感じ。頭の奥の方にどんどん入り込んでくみたいな。」

 私の知り合いにも偏頭痛で悩む人がいる。その人は薬を飲んでも痛みに加えて吐き気に近い不快感を催すと言う。ただの頭痛だろと言われる事が辛いと言っていた。

 「そうか、本当にかわいそうだねそれは。」

 泰輝くんがそう言った後、口から小さな息がこぼれたことに気づいた。まるで安堵して笑っているかのようだ。泰輝くんはやっぱり笠岡くんの言う通り、体の弱さを喜んでいるんだと分かる。まさしく偽善。善の部分は金箔くらいに薄く剥がれ落ちる。私ですらそれを理解してしまった。

 昨日の私は正しく、間違えた行動をしたと思う。浮気は汚い、しかも幼馴染とだなんて私は下劣だ。でも芳岡さんとか相野とか、あと山田さんも、私たちのクラスにはたった一人の異性を執拗に愛し続ける人たちがいる。そういう人たちを見ているとなんて融通の利かない恋愛をしているんだと思う。一方私には愚直であり続ける純粋さが圧倒的に足りていない。そんな言い訳を昨日眠る前に上手いこと思いつく事ができた。

 そして今学期の最後のホームルームに現れたのは理科担当の岡戸先生だった。黒田先生はもうどこ行ったのか分からないし、体育教師も私たちのことは他人事のように、爽やかな顔をして自分のクラスの生徒たちに挨拶をしていた。古臭い色のスーツを着て教室に入ってきた岡戸先生もどうせ同じようなものだろうと思っていた。しかし岡戸先生はまず第一に教壇で頭を下げた。

 「教員の不祥事で皆さんを不安な気持ちにしたにも関わらず、大した説明をしないまま夏休みを迎えてしまいます。あまりに無責任だと思っています。申し訳ありませんでした。」

 でも最後までこの老耄教師も不祥事自体の説明はしなかった。だから結局この人だって無責任じゃ無いかと思いつつも、もう六十も超えた人間の謝罪はなんだか痛々しくて、ある意味許してしまうような気持ちにもなった。しかもよく考えたら安部先生のことは山田さんが阿呆みたいにみんなに言いふらしているから、今更説明される必要なんて無いんだと気づいた。私だけじゃなくてみんなも同じような心情だったようで、今日のホームルームはやけに静寂としたまま終了した。

 明日から夏休みという高揚感を抱きながら、クラスメイトは教室から勢いよく散っていき、私は泰輝くんに声を掛けた。「一緒に帰ろうね。」と言うと当然彼は「もちろん」と言って微笑んだ。

 「笠岡くんも一緒に。三人で帰りたいんだって、そう言ってた。」

 そのことを伝えると彼の瞳孔がグッと拡大したのち、微笑みが消える。

 「え、どうして?」

 「どうしてって、泰輝くんと疎遠になって悲しかったんじゃない?私たち幼馴染だよ?」

 私が想像した以上に、彼は動揺していた。窓の外を見たり、私のことを見つめたり視線が落ち着かないままだった。

 「だから三人で帰ろう。ね、そうしようよ。」

 私は半ば強制的に泰輝くんの手を引いて下駄箱の方へ連れて行った。靴を履き替えて校門の近くで傘を刺す笠岡くんの姿が見えた時は達成感に満ち溢れた。

 泰輝くんの傘に入れてもらいながら「おーい、お待たせー」と言って笠岡くんに手を振ると彼も手を振りかえしてくれた。泰輝くんがここから離れたいと思っていることが横にいれば何となく感じる事ができた。でも一つの傘に二人で入っているのだから私が離れない限り、彼も離れられない。私をびしょ濡れにしたくは無いだろうし、笠岡くんの傘に入れるのなんて尚更だ。

 「三人で帰るのなんて本当に、久しぶり。」

 私がそう言うと笠岡くんは「本当にそうだね。」と言って泰輝くんは無言で頷いた。

 「泰輝とも、話したい事があったんだよ。」

 「そう。」

 泰輝くんはかろうじで聞こえる声で呟いた。私は笠岡くんと顔を見合わせる。

 そして懐かしさを感じながら雨の中意気揚々と歩き出した。でも最初は気まずくて仕方なかった。三人とも何かを話そうとはしているけど一向に言葉が出てこない。どんなに小さな話題でもよかったのにそれすらも出ずに、歩くだけの時間は辛かった。

 「でもさ。」

 その後、信号待ちの時にようやく笠岡くんが口を開いてくれた。

 「僕は本当に羨ましかったんだよ。泰輝のことが。」

 「どうして?」

 泰輝くんは赤く照らす信号機を見ながらそう聞いた。

 「そんなの山内と付き合えてるからだよ。」

 私は恥ずかしくて顔が熱くなる。

 「僕は別に告白して振られたわけじゃ無いけども、何となく劣っているような気になってね。」

 「別にそこに優劣はないでしょ。」

 そう言いながらも泰輝くんは私の身体に少しだけ近づいたような気がした。

 「僕にとってはあるんだよ。はっきりと負けた気分でいるの。」

 「何だよそれ。」

 信号は青になり、三人は歩き出す。この信号は渡り切る前に点滅してしまうほど、青信号が短い。

 「泰輝もそんな気持ちが分かっているよね。」

 「そうだね。僕は分かるよ。」

 私を挟んで二人は心理戦のような会話をし続けた。でも私にも彼らの言っていることが何となく理解できる。幼馴染の片割れと付き合うことがそもそも、もう片方に優劣の意識を芽生えさせる非情なものだと言うこと。

そして二人とも優劣を気にしながら生きていたのに、泰輝くんだけが被害者ずらして笠岡くんを傷つけたと言うこと。

 そして泰輝くんは私の手を握り始めた。多分、笠岡くんに優劣を突きつけるためにそうしたのだと思う。恋人だと言うことを見せつけて彼に敗北感を見せつけようと。だから、私は泰輝くんの手を握り返そうとする気にはならなかった。

 それに加えてさっき笠岡くんの偏頭痛を嬉しがるような微かな表情も見てしまったから、この触れる彼の手のひらが何だか嫌になった。

 自分の中で収めきれない嫉妬を犯して、相手を傷つけようとする人には勝ち誇ってほしくないと、ただ漠然と思う。あれほど泰輝くんのことは好きだったはずなのに、そんな感情は雨と一緒に流れていく。笠岡くんは相野を捨てて私を選ぶ。私は泰輝くんを捨てて笠岡くんを選ぶ。そんな私の決意を知らぬまま、泰輝くんは私の手をしっとりと握りながら歩いている。仕方ないから今だけは繋いでおいてあげる。

 交差点を過ぎて路地に入り、住宅街へと進んでいく。私たち三人の家は高校から歩こうと思えば歩ける場所にあるので今日は電車に乗らない。他の友達は駅で解散とか、一緒に行けても大通りで別れてしまったりするけれど、家の近くまで誰も別れずに帰ることができるのはやっぱり幼馴染だからだと思って少し嬉しくなる。小学校の頃が懐かしい気持ちはかなり強くて、今日三人で帰れてよかったと思えた。

 黒いアスファルトの地面には大きな水溜まりが出来て、水面に私たちの姿が鮮明に映り込む。

 「なんか山内さ、小学生の頃は水溜まりに素足でジャボジャボ入ってたよね。」

 笠岡くんはその水溜まりを避けながらそう言う。

 「ああ、スズは今もそれやってるよ。公園にできた水溜まりとかで。」

 「一回だけね、今でも毎回やってるみたいな言い方やめてよ。」

 私は恥ずかしくなる。でも俯いた時に両耳から聞こえた笑い声はとにかく心が和む。

 「夏休み明けたら、もうちょっと三人で遊んだりもしよう。」

 笠岡くんはそう言うけれど、おそらく本心ではない。「もちろん」と頷く私も同じく本心ではない。泰輝くんはどうだろうか。

 「スズがいいんだったら、たまにはいいよ。」

 泰輝くんは笑いながらそう言う。でも君は笑っている場合ではない。もうすぐに私の彼氏ではなくなるはずだから。

 私は繋がれた泰輝くんの手を振り払い、二人の傘から飛び出した。細かい雨が上空から降り注ぎ私の髪先から湿らす。二人は少し驚いたような顔をしつつ「どうしたの?」と言った。どうして自ら雨に濡れに行ったのか、自分でもよく分からないけどとにかく今の関係性を一度まっさらにしたい気持ちの表れかとも思う。一度自由になると言うこと。

 目の前には畳一畳分くらいの大きな水溜まりがあった。それを思いっきり踏ん張って両足でジャンプして飛び越える。リュックの中の教科書が重力で音を立てた。着地したその刹那に二人の方を振り返って自慢げに笑って見せる。笠岡くんは「どういう意味?」と笑って問う。いや、私にも分からない。泰輝くんは「また水溜まりに入るのかと思った。」と楽しげに言葉を放つ。いや、もう入ってたまるかと思う。

 「すごいでしょ。」とにやけながら私は言った。二人はお互いに目を合わせながら頬を緩ませて私に視線を向けた。その様子があまりにもあの時と同じだと思った。あの時というのは小学校の体育の時間で見学者用のベンチで楽しそうに会話していた時。私が二人に特別な絆を感じて友達になりたいと強く願った特別な雰囲気。そのものだった。でももうこんな朗らかな時間は二度と訪れないのだとふと感じる。

 あの教室で私は随分、厄介な人たちに精神を削られたと思う。急に水をかけられたような不快感、攻撃的なクラスメイトと御多分に漏れない私。幼馴染の片割れを捨ててもう片方と恋をする私。

 でも、夏休みが始まる最後の今日にこんな懐かしい気持ちになれて別にもう今までのことなんてどうでも良くなった。最後が幸せならばそれで良かった。

 前髪から雨の雫が垂れる私は、二人と仲良くなった時と同じような気持ちでもう一度傘に入る。この暖かさがやっぱり懐かしい。しかももう今後味わえないと知っているから名残惜しさがある。

 私が笠岡くんとこれから恋をするとして、学校が始まったら泰輝くんは勿論、また相野にも恨まれてしまうだろう。でもそれでも仕方ない。笠岡くんがそこにいてくれるなら恨まれてから考えることにしてしまおう。

 泰輝くんから見えないように、いや見えても最悪良いと思いながら、笠岡くんの左手に触れてみる。ああ、これで良かったんだと強く思った。

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