風にほどける境界

 翌朝、ナミネは早くに家を出た。

 行き先は決めていない。ただ、昨日の“風”と“ページの導き”を信じて、海沿いの道を歩き続けた。


 町の端にある展望台は、昔から地元の人間すら滅多に来ない場所だった。

 今はもう使われていない古い貨物線の線路を越え、木々の間を縫うように坂道を登っていく。


 (昨日、本のページに浮かんだ港……あの景色、見たことないのに、懐かしかった)


 ナミネは鞄の中の本にそっと手を置いた。かけらは、小さな布に包んで胸ポケットにしまってある。


 展望台に辿り着くと、風が強くなった。

 塩を含んだ潮風――けれどそれは、この町でいつも感じる“潮風”とは何かが違った。


 もっと柔らかくて、暖かくて、呼吸のたびに胸の奥をざわつかせる。


 そして、ナミネの足元に、風が巻いた。


 ふと気づくと、古びた展望台の床に、昨日見たタイル模様に似た円が刻まれていた。

 苔むして消えかけた模様――なのに、ナミネの目にはそれが、静かに光を放っているように見えた。


 ページの言葉が、脳裏に蘇る。


 > “すべての始まりの海へ。風はそこから吹いていた。”


 ナミネはそっとかけらを取り出し、模様の中央にかざした。


 その瞬間、空気が変わった。

 風が止み、音が消え、時間がほんのわずか、引き伸ばされたような感覚。


 視界がぼやけ、潮の匂いがぐっと濃くなる。


 気づけば、ナミネは見知らぬ石畳の道に立っていた。


 高くそびえる塔、赤レンガの建物、遠くで鐘の音が響いている。

 小さなゴンドラが水面を揺らし、広場の中央には、青く輝く球体――それが、静かに回っていた。


 アクアスフィア。

 けれどナミネは、まだその名前を知らない。ただその姿に、胸の奥が震えた。


 (ここ……どこ?)


 町の喧騒は遠く、まるで時間が止まったようだった。

 人影はない。でも、そこには確かに“誰か”の気配が残っていた。


 ナミネは一歩踏み出す。

 そこは、誰の記憶にも残っていない海。

 けれど、母の本が導いた場所。


 失われた海の物語が、今、静かに目覚めはじめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る