「この街に俺の未来はない！」

――剣士ライン、怒りと悲しみの旅立ち

　冒険者として名を馳せることを夢見て、血と汗と剣を捧げてきた。

　幼い頃から剣を握り、ようやくパーティが中堅として名が通るようになったこの頃、ライン＝キルトは手応えを感じ始めていた。

　……その矢先だった。

「悪いけど、ここで終わりにしましょう、ライン。あなたには……未来がないもの」

　恋人であり、冒険者パーティの仲間でもあった魔術師アイリスが、そう言い放った時、ラインは何を言われているのか理解できなかった。

「……どういう意味だ、それは」

　アイリスは視線を逸らし、パーティのリーダーであるグレイが代わって口を開く。

「すまない、ライン。お前の剣の腕が信用できないわけじゃない。だが……今回、新たに加わることになった“彼”が条件を出してきたんだ」

「“彼”？」

　聞き返すまでもない。今、貴族の道楽で冒険者を気取っている、あの男――デビリール＝ダンバリー伯爵家の令息だ。

　小手先の魔法と派手な装備を振りかざし、貧乏くさい冒険者の中でやたらと目立っていた。金とコネで危険な任務を避け、戦果だけを誇る男。

　その男が言ったというのだ。「アイリスを専属魔導士にする。だが、あの“しがない剣士”とは縁を切ることが条件だ」と。

「私……選んだの。ごめんなさい、ライン」

　目を伏せるアイリスの言葉に、ラインの胸は張り裂けそうになった。

　何も言えず、何も聞こえず――店の扉を開け、ふらふらと外へ出た。

　気がつけば、ギルドの前に立っていた。

　まだ陽が高い。依頼掲示板の前に人だかりができている。

　ラインは、呼吸を整えて掲示板に目をやった。これまで何度も挑んできたように――ひとりででも、やってやる。

　その時。

「おっと、それには手を出すな。これは“ダンバリー様”が押さえた案件だ」

　受付にいた熟練冒険者が声をかけてきた。その後ろには、にやけた顔のギルド職員が控えている。

「すみませんねえ、ラインさん。最近、伯爵家からの圧力がありまして……あなたに依頼を渡すのは、ちょっと……」

「……何だって？」

「つまりですね、“あの方”に逆らいたくないんですよ。分かってくださいよ。あなたみたいな無名剣士のために、ギルド全体が目をつけられるのは困るんで」

　声を押し殺して笑う職員たち。

　胸の奥から、何かが爆ぜた。

「アイリスに……パーティも未来も奪われて……今度はギルドの依頼までか」

　呟きながら拳を握る。

　怒りに燃えるようなその手を、無理に開いて背を向けた。

　夕刻。人通りの少ない裏道。

　ラインは古びた宿に戻り、荷物をまとめた。冒険者登録証、傷だらけの剣、使い込まれた鞘。これだけあれば十分だ。

「……もう、いい」

　かすれた声が漏れる。

　誰かに理解されたいと願っていた。認めてほしかった。努力は報われるものだと信じていた。

　だが、それは幻想だった。

　貴族に歯向かえば、全てを失う。それが“この街”――貴族が支配する街の現実。

　だが、だからこそ、ラインの中に燃え盛るものがあった。

「見ていろ、アイリス……ダンバリー……」

　怒りと悔しさを鞘に込めて、背に背負う。

　このままでは終われない。このまま終わってたまるか。　

　夜明け前、ラインは街を出た。

　東の森を越えた先にあるという辺境の地。そこには、古の剣技を継ぐ者がいるという噂がある。

　そんなもの、以前のラインなら鼻で笑っていた。

　けれども今なら信じられる。

　剣は裏切らない。剣だけは、努力に応える。

　心の奥に、静かに炎が灯る。

　これは終わりではない。ここからが始まりだ。

　この世界が、貴族のものだと言うならば――それを根底から覆してやる。

◆「剣は報われないのか」――名もなき女冒険者、裏路地にて思う

　その日のギルドは、ざわついていた。

「ラインが……街を出たらしいよ」

　誰かの呟きが、耳に残っている。

　わたし――クラリス＝メイフィールは、ギルドの片隅で震えを堪えていた。手に持つカップは空っぽになっていたけれど、何も口にできなかった。何を食べても、喉を通らなかった。

　あの人が――ラインが、街を去ったのだ。

　剣士としては、正直に言って飛び抜けた存在ではなかったと思う。だけど、努力家だった。実直で、決して他人を見下したりしない。パーティが崩れそうなときも、自分を犠牲にしてでも繋ぎ止めようとしていた。

　そんな彼が、あんな形で追い出されるなんて――

「……ねえ、聞いた？　ダンバリー様の圧力で、ラインは依頼も受けられなくなったんですって」

　酒場のカウンター越しに、若い魔法使いの女が囁いた。わざとらしく声をひそめながらも、耳に届くように。

「アイリスもさ……あの貴族の子飼いになったんだって。まあ、正しい判断よね。誰だって、無名の剣士とじゃ未来はないし」

　笑い声が広がる。

　わたしは、無言でその会話を聞いていた。飲みかけの酒に、手を伸ばすこともなく。

　……わたしだって、分かってる。ここはそういう街。貴族に睨まれたら最後。ギルドだって、酒場だって、どこにいても監視の目がある。

　でも。

　「だから仕方ない」なんて、簡単に言えることじゃない。

　ラインが、ギルドの掲示板の前で言葉を失っていた姿。にやにや笑う職員たちと、それを止めようともしなかった誰か。わたしは、それを遠くから見ていた。何も言えなかった。足が動かなかった。

　そのときの自分が、情けなくてたまらない。

　わたしは何のために剣を握ったのだろう。

　自由を得るため？　強くなるため？　誰にも縛られない人生のため？

　――笑わせる。

　貴族に睨まれただけで、依頼は止められ、噂を流され、味方だったはずの仲間からも裏切られる。

　こんな街で、何を信じればいい？

「クラリス、あんたも気をつけなよ」

　酒場の奥、灯りの届かない席から声がした。声の主は、レイン。年上の女盗賊で、情報屋としても知られる人物だった。

「ダンバリー家は、今じゃ“冒険者の庇護者”を気取ってる。気に入らないやつを潰すのなんて、朝飯前さ。ラインの件でわかったでしょ？」

　わかってる。わかってるけど……。

「じゃあ、どうすればいいの？　黙って媚びて、下を向いて、生き延びるしかないの？」

　そう返した声は、情けなく震えていた。

　レインは少し黙ってから、溜息を吐いた。

「生き延びたいなら、そうだね。そうしなきゃダメ。でも……あたしは、ラインの背中、忘れられそうにない」

　その言葉に、胸が詰まった。

　わたしも、忘れられそうにない。

　剣を握り締め、何も言わずに背を向けていったラインの姿。どこか哀しげで、それでも、何かを捨てたような潔さがあった。

　彼は去ったのではない。――“旅立った”のだ。

　そう、気づいた。

　逃げたのではない。投げ出したのではない。捨てられた側なのに、まだ戦うつもりでいる。

　じゃあ、わたしは……？

　夜の道を歩きながら、思い出す。

　あのとき、声をかければよかった。止めればよかった。笑って「一緒に行こう」と言えたなら。

　――けれど。

「……まだ、遅くはないかもしれない」

　呟いた声は、小さな焔のようだった。

　貴族に媚びるギルド、蹂躙される冒険者たち、名ばかりの自由。そんな街で、ただ縮こまって生きるくらいなら――

　わたしも、旅立つべきなのかもしれない。

　あの人と同じように。自分の足で、未来を掴みにいくために。

　明日、この街を出よう。まだ、ラインに追いつけるかもしれない。

　そのときは、きっと伝えよう。

　あの日、背中を見送ることしかできなかった自分の想いを。

　そして――

　「……わたしは、剣を信じたい。信じていたい。努力が報われる世界が、どこかにあるって」

　そう、言葉にすることができた。

　この夜の静けさの中、未来はまだ見えない。

　けれど、心の奥に、小さな剣の灯が宿っていた。