第七話 ママが病気になった日


(一)放課後の会話


放課後、夕日が校庭を斜めに照らしていた。ミッシェルは、リン・チーハン、チョウ・ユーシュエン、チャン・ズーエン、リー・シンアンの四人と一緒に、帰り道を歩いていた。


ここ数日、いろんなことがあった。でも、今の空気は先週とは比べものにならないくらい、ずっと穏やかだった。


四人は知っていた。ミッシェルは表向きには「ガオ・ジーカイの気持ちは分かる」と言っていたけれど、本当の意味で心から許したわけではないかもしれないと。だから、彼らはミッシェルにジーカイのいいところを少しでも知ってもらおうと、さりげなくジーカイの話題を出すようにしていた。。


リー・シンアンが楽しそうにバッグを振りながら言った。

「ねえねえ、聞いた? ジーカイさ、この前一人で山のほうまで長距離バスに乗って、川辺に釣りに行ったんだって!」


「それ聞いたことある。前にも一人で自転車でめっちゃ遠くのスポーツ用品店まで行ったって言ってたよ。MRTの終点駅の近くまでさ。」とチャン・ズーエンが付け加えた。

「ほんとに、あいつは一人で遠くまで行くの好きだよね。」とチョウ・ユーシュエン。

「もうほとんど“小さな冒険王”って感じ。」とチーハンが笑った。


リー・シンアンも負けじと話す。

「ぼくもバスでおじいちゃんおばあちゃんの家に行ったことあるよ……近いけどね、十分くらい。」


それを聞いたミッシェルは、少し驚いたように尋ねた。

「みんな、そんなふうに一人でバスに乗ったことあるの?」


「あるよ。でもいつも同じルート、乗り換えもないし。」とチーハン。

「わたしも。塾に行くときのルートだけ。」とズーエンが淡々と言った。

「ぼくは前に、一人でバスで科学教育館まで行ったよ。」とユーシュエンが笑顔で続けた。


ミッシェルはそれを聞くと、口を閉じ、うつむき加減で歩くペースを少し落とした。


チーハンはミッシェルの様子に気づき、そっと問いかけた。

「ミッシェル、大丈夫?」


ミッシェルはうつむいたまま、小さな声で言った。

「みんなもう一人でバスに乗って、いろんなところに行けるんだね……でも、わたしはまだ一度もやったことがなくて……わたしって、ちょっと臆病すぎなのかな。」


ズーエンが言った。

「そんなの気にすることないよ。わたしも最初はすごく緊張した。間違って乗っちゃいそうでドキドキだったし。」


「うん、ぼくなんて最初に乗ったとき、自分で降車ボタン押すのこわくて、運転手のおばさんに先に降りるところを言っておいて停めてもらったんだよ。」とユーシュエンも笑って加えた。


チーハンはそっとミッシェルの腕を軽くたたいて励ました。

「人にはそれぞれ自分のペースがあるんだからさ。ミッシェルが準備できたら、わたしたち、ちゃんと手伝ってあげるよ。」


リー・シンアンもうなずいて言った。

「そうそう。いつかミッシェルもきっと、自分でバスに乗って冒険する日が来るよ。そしたら、ぼくたちをその“新しく見つけた場所”に連れてってくれるんだよね!」


友だちの一言一言を聞きながら、ミッシェルはほんの少し口元をほころばせて、静かにうなずいた。


そして、ぽつりとつぶやいた。

「……わたしも、いつか、みんなみたいに……一人でバスに乗って、行ったことのない場所へ行ってみたいな。」




(二)秘密の任務


ミッシェルはいつものようにマンションの部屋の前まで歩いて帰ってきて、インターホンを押した。

「ママ、ただいま――」


しばらく待ったが、中からは何の反応もない。普段ならこの時間、ママが笑顔で出てきて「おかえり」って言ってくれるはずなのに。

(あれ? どうしてママが出てこないの?)


ミッシェルは少し不思議そうに眉をひそめ、リュックのサイドポケットから鍵を取り出して、慎重に鍵穴に差し込んだ。

「自分で開けるね~」


扉を開けた瞬間、ミッシェルはなにかがいつもと違うことに気づいた。家の中が普段より静かで、ママの声も、キッチンの香りも感じられなかった。


靴を脱いで中に入り、ミッシェルはママの返事を待ったが、何の音もしない。寝室へ向かうと、ベッドの上でママが横になっており、顔は赤く、額にはうっすらと汗がにじんでいた。


「ママ、どうしたの?」ミッシェルは駆け寄った。


「大丈夫よ。ただ少し熱があるだけ。薬も飲んだし、ちゃんと休めば治るから。」

ママは弱々しく笑いながら言った。


けれど、ミッシェルはママの手をぎゅっと握りしめて言った。

「でも……今日はパパ、出張でいないでしょ。だったら、わたしがママのお世話をするしかないじゃない!」


ママはミッシェルの髪をやさしく撫でながら言った。

「ママがゆっくり休めればそれでいいのよ。ほかのことは気にしないで。」


でもミッシェルの心の中には、ある決意が芽生えていた。


ふと、以前パパが熱を出したときのことを思い出した。あのとき、ママと一緒に作った熱々のマカロニに細かく刻んだ白いハムを加えた特製パスタ。パパは食欲がなかったはずなのに、一口食べて目を輝かせながら、「これは世界一の病人食だなあ」って笑っていた。


「よし、ママにも同じの作ってあげよう!」

ミッシェルの目がぱっと輝き、キッチンへ駆け出した。でも、冷蔵庫と棚を開けてみると、パスタもハムもない。

ミッシェルは冷蔵庫の前でしばらく考えたあと、思い出した。あれは郊外のショッピングセンターにある輸入食品のスーパーで買った食材だった。前回はママが車で連れて行ってくれた。


「でも……今度は、自分でバスに乗らなきゃいけない……」

足が止まり、少しためらいが心をよぎる。

(でも……チーハンたちだって、もう自分でバスに乗ってる。わたしも、あんなふうになりたい……)


ミッシェルは書斎に戻り、パパのパソコンを開いてショッピングセンターまでのバス路線を調べた。画面にはずらりと並ぶバス番号と停留所、乗り換え方法……見ているだけで頭がクラクラする。


(難しすぎる……こんなの、ぜんぜん分かんない……)

(迷子になったら、どうしよう……)


不安が押し寄せてきた。でも、彼女は自分に言い聞かせた。

(わたしならできる。絶対に行くんだ!)


メモ帳とペンを取り出し、調べたバス番号を書き写す。路線図を何度も確認しながら、自信はないけれど、自分を信じることにした。


財布を開けて、小銭をテーブルに出してみる。いつも大事に取っておいたお小遣いは、なんとか買い物に足りそうだった。

引き出しから「悠遊カード」を取り出して、慎重にポケットにしまう。


出かける前、寝室のママをのぞくと、もう眠っていて、枕元にはスマホが置かれていた。

(ダメ……ママのスマホは持っていけない。何かあったとき、ママが使えないと困るもん。)


ミッシェルはリビングのテーブルに、そっと一枚のメモを置いた。

「ママへ。お買い物に行ってきます。すぐ帰るから心配しないでね。〇:〇〇 P.M.」


そして、大きく息を吸い込んで、ドアを開けた。

夕暮れの街へ、ミッシェルの小さな冒険が始まった。




(三)バスを追いかける自転車


ミッシェルはバス停に立ち、小さな紙片をぎゅっと握りしめていた。それは、さっき調べたバスの路線と停留所のメモだった。夕陽が斜めに街路を照らし、バスがまだ来ない時間が長引くほどに、彼女の心臓の鼓動もどんどん速くなっていく。


(本当に、できるかな……? 一人で、こんな遠くまでバスに乗るなんて……)


向かいの車線には、バスが何台も通り過ぎていくが、彼女が乗るべきバスはなかなか来ない。手のひらには汗がにじみ、足もそわそわと落ち着かずに動いていた。ふと、「悠遊カード」を取り出して見つめる。まるで、それに勇気を託すかのように。


そのとき、遠くからバスが一台、ゆっくりと近づいてくる。ミッシェルが乗るバスだった!


ミッシェルは慌ててメモをポケットにしまい、リュックを背負い直して乗車の準備をした。まだ慣れない手つきでカードを装置にかざし、窓際の席に腰を下ろす。膝の上にぎゅっと手を置き、車窓の風景がスピードを上げて流れていくのを見ながら、胸の中では小さな太鼓が「ドンドン」と鳴っているようだった。


そのころ、通りの向こうでは、ちょうどガオ・ジーカイが自転車で角を曲がってきたところだった。ふと、バスに乗ろうとしているミッシェルの姿が目に入り、驚いて思わず自転車を止めた。


(あれ……ミッシェル? まさか、一人でバスに?)

ジーカイは眉をひそめて考えた。数日前にリン・チーハンが言っていたことを思い出す。


「ミッシェル、今まで一人でバスに乗ったことがないって言ってたよ。怖いんだって……」

でも今、ミッシェルは一人で郊外方面行きのバスに乗っていた。


(どこへ行くつもりなんだ? あの路線って、行きと帰りでルートが違うんだよな……帰ってこれるのかな?)

不安がこみ上げてくる。手はまだハンドルを握ったまま。


(追いかけた方がいいか……? でも、余計なおせっかいかもしれないし……)

(そもそもバスについて行けるわけないし、ミッシェルがどこで降りるのかもわからない……)

(スマホも持ってきてないし、ママにもどこ行くか言ってない……)


ペダルを見つめながら、頭の中で二つの声がせめぎ合う。

——でも、もし本当に迷子になったら?


その思いが胸に浮かんだ瞬間、ジーカイはぎゅっと歯を食いしばり、勢いよく自転車にまたがった。

(もう、考えてる暇なんかない! とにかく追いかけよう!)


そう決めて、ジーカイはペダルを踏み込んだ。バスのテールランプをじっと見つめながら、速度を上げていく。ジーカイはこの路線を以前に使ったことがあった。おおよそのルートは頭に入っている。


そうして、一台の自転車が夕暮れの街をひた走る。ひたすらにバスのあとを追いかけて。

バスが角を曲がり、視界から消えた瞬間、ジーカイは信号待ちに引っかかり、悔しそうにハンドルを一発叩いた。信号が青に変わると同時に、彼は再び勢いよく自転車をこぎ出した。


以前乗った時のバスのルートを思い出しながら、次の停留所、さらにその次へと急ぐ。どのバス停にも目を凝らし、ミッシェルの姿がないか探し続ける。そして心の中で、何度も何度も祈る。


(ミッシェル、頼むから、ちょっとだけ、待ってて。絶対に、見つけるから。)




(四)見知らぬ帰り道


バスは静かに進んでいく。ミッシェルは窓際の席に座り、車内の電光掲示板をじっと見つめながら、時おり外の停留所の名前にも目を向けていた。

小さな紙片を手に握りしめ、胸の鼓動はまだ少し早いままだ。

(わたし、本当に今、バスに乗ってる……一人で)


少し怖さもあったけれど、窓の外に流れていく見慣れない風景を眺めているうちに、不思議と胸の中に静かな期待が生まれてきた。

いま自分は、何か大事なことを成し遂げようとしている——そんな気がした。

(ママ、病気なんだ。わたしがちゃんと買ってこなきゃ)


やがて、目的の「〇〇プラザ」停留所でボタンを押し、無事にバスを降りた。

目の前には、以前ママと一緒に訪れたショッピングセンターが広がっていた。

(やった……できた!)


輸入食品のスーパーで、ミッシェルはマカロニと白ハムを見つけて、ひとつずつかごに入れていった。

そのときふと思い出したのは、あの日ママが言っていた一言——

「チーズを少しだけのせると、もっと香りがよくなるのよ」


ミッシェルはチーズ売り場の前で少し悩んだ末、小さなパックのパルメザンチーズを選んだ。

ちょっと高かったけど、なんとかおこづかいの範囲内に収まっていた。


レジで小銭入れの中身を全部取り出すとき、少しだけ緊張したけれど、なんとかぴったり足りた。

買い物袋を手にスーパーを出たとき、胸の中には何とも言えない達成感が広がっていた。


袋を下げて外に出ると、空はもう少し暗くなりはじめていた。ミッシェルはバス停の並ぶ方向を見やり、急いで帰ることにした。


バス停まで歩き、掲示された路線図と紙片を見比べて、来たときと同じ番号のバスを探す。

(この番号……×××番。たしかこれだった。でも……)


復路の停留所名を一つひとつ確認していくと——来るときと見覚えのない名前が続いていた。

(えっ? さっきはこんな停留所、なかったよね……)


ミッシェルの眉間にしわが寄り、心臓が再び早鐘のように鳴り始める。

今見ている路線図からは、どのバスに乗れば元の場所に戻れるのか、まったく分からない。

(どうしよう……さっきはあんなにうまく来られたのに、どうして帰りはこんなに難しいの……?)


手にした買い物袋を見下ろし、もう一度バス停を見上げた。

胸の中はじわじわと後悔でいっぱいになっていく。

(帰り道のことまで調べておくべきだった……どうして気づかなかったんだろう……)


バス停のそばに立ったまま、唇をかみしめる。心の中はこんがらがった糸のようにぐちゃぐちゃだった。

(どうしよう……ママに心配かけたくないのに……でも、本当に帰り方がわからない……)


電話をかけようかとも思ったけれど、スマホはママの枕元に置いてきた。

人の行き交うバス停で、ミッシェルはぽつんと取り残された小さな舟のように感じた。

精一杯の気持ちで買ってきた夕飯の材料を手にしながら、帰るべき道が見つからず、じっと立ち尽くしていた。




(五)誰にも連絡がつかない午後


そのころ、ミッシェルのママはベッドの上でゆっくりと目を覚ました。まだ頭が少しぼんやりしていて、額に手を当てると、体温はまだ少し高めだった。


起き上がって、ミッシェルの姿を探そうとした時、ふと食卓の上に置かれた一枚のメモ用紙が目に入った。


「ママ、ちょっと買い物に行ってきます。すぐ帰るから心配しないでね。〇:〇〇 P.M.」


ママは一瞬固まったあと、急いで壁の時計に目をやった。——もう、書かれていた時間から一時間以上が過ぎている。

「ミッシェル……どこに行ったの? スマホも持たずに……」


不安が胸の奥からじわじわと広がってくる。ママはすぐに「四年二組保護者グループ」のチャットを開き、急いでメッセージを打ち込んだ。

「すみません、どなたかミッシェルを見かけませんでしたか? 『ちょっと買い物に行ってくる』というメモを残して出かけたようなのですが、もう一時間以上帰ってきていません。スマホも持っていないので、とても心配です。何か情報があれば教えてください。」


一方そのころ、ガオ・ジーカイの母親も何かおかしいと気づいていた。空は少しずつ暗くなりはじめていて、放課後にサッカーをすると言って出かけた息子が、まだ帰ってきていない。

(スマホも持っていってないのに……あの子、一体どこへ行ったの?)


彼女も慌ててグループチャットに書き込んだ。

「すみません、ジーカイを見かけた方はいらっしゃいませんか? 放課後に自転車でサッカーをしに出かけたのですが、まだ帰ってきていません。スマホも持っていないので、心配しています……」


やがてグループには次々と新しいメッセージが届きはじめた。


「ミッシェルちゃんがいないの?」

「ジーカイくんもまだ帰ってないの?」

「もしかして、ふたり一緒にいるんじゃ……?」

「うちの娘が、ミッシェルちゃんが一人でバス停に向かうのを見たって言ってます」

「うちの息子は、ジーカイくんが自転車で市街地の方へ向かうのを見たそうです」

「ふたりって、普段から連絡取り合ってたのかな……?」


中には警察に連絡すべきかと提案する人も出てきた。まだ「行方不明」というほどではないにしても、募る不安が保護者たちの間に波紋のように広がっていった。


こうして、やりとりの中でミッシェルとガオ・ジーカイという二人の名前が、四年二組の保護者たちの間で急速に広まりはじめた。


クラス全体がそわそわとし始め、生徒も保護者も、それぞれが記憶をたどり、話を聞き合い、できることを探し始めていた。

思いがけない小さな出来事が、いつのまにか、みんなの心を結ぶひとつの波となって、静かに広がりつつあった。




(六)バスを待つ人たち


夕暮れの空はすっかり暗くなり、バス停の横を風が通り抜け、落ち葉がカサカサと音を立てていた。

ミッシェルはベンチのそばに立ち、買った食材を抱えながら、路線図を不安げに見つめていた。

その表情には、戸惑いがはっきりと浮かんでいた。

(誰かに聞いてみようかな……)


ミッシェルは周囲を見回した。

数人の大人たちはスマホを見つめ、高校生らしい運動着姿のふたりが近くでふざけ合っている。

ミッシェルは一瞬歩きかけた足を引っ込めた。


(公衆電話を探す? それとも……近くに交番がある?)

街角のほうに目を向けて「警察」のマークを探したが、見えるのはショッピングセンターや飲食店、コンビニだけで、どちらへ行けばいいのかまったく分からなかった。


不安と焦りが混ざり合う中、ふいにやさしげな声が耳元で響いた。

「お嬢ちゃん、帰りのバスが分からないの?」


ミッシェルが顔を上げると、そこには中年の女性が立っていた。

きちんとしたブラウスを着て、片手にスーパーの袋を提げている。

穏やかな表情をしていて、とても親しみやすそうに見えた。


ミッシェルは一瞬きょとんとし、目にかすかな希望が浮かんだものの、まだ不安を拭えずに、口ごもりながら答えた。

「は、はい……さっき×××番のバスで来たんですけど……」


女性はにこやかにうなずき、優しく言った。

「どのバス停まで帰るの?」


ミッシェルは路線図を指さしながら、小さな声で答えた。

「このバスで来たんですけど、同じバスの帰りの停留所が見つからなくて……」


女性は眉をひそめて路線図をじっと見つめ、そしてこう言った。

「ああ、このバスは帰り道が違うのよ。こっち、案内してあげる。」


ミッシェルは一瞬うなずいた。

でもその場に立ち尽くしたまま、足は動かなかった。


そのとき、頭の中にママの言葉がよみがえった。

(知らない大人に「ついておいで」と言われても、どんなに優しそうでも「大丈夫です、ありがとう」って言って、すぐに安全な場所に行くのよ。)


ミッシェルは手に持ったレジ袋を見下ろし、迷いがこみ上げてくる。

(でも……断ったら失礼かも……この人、ほんとにやさしそうだし……)


何か言わなきゃ、と思って顔を上げたが、言葉が出てこなかった。

心の中でどうしたらいいのかぐるぐると考えていると——


そのとき、息を切らした声が突然聞こえた。




(七)おっちょこちょいな守護者


「ミッシェル!」


その声に振り向くと、そこに見えたのは汗だくになりながら自転車を必死にこいでこちらに向かってくるガオ・ジーカイだった。

ジーカイはミッシェルの目の前で急ブレーキをかけ、ハンドルを握ったまま、肩で息をしている。


ミッシェルは目を丸くして言った。

「ジーカイ? なんでここに?」


さっき話しかけてきた中年の女性は、ふたりの様子を見てにっこりと笑い、

「あら、お友だちが迎えに来たのね。それじゃ、わたしはこれで。気をつけてね」

と一言残して立ち去っていった。


ミッシェルはジーカイを見つめたまま、自分の手のひらが汗でじっとり濡れていることに気づいた。

持っていたビニール袋の持ち手は、ぎゅっと握りすぎてしわくちゃになっていた。


ジーカイは息を整えながら自転車を支え、額の汗をぬぐった。

「さっき、君がバスに乗るのが見えたんだ。それで……つい、追いかけちゃって」


「追いかけたって……どうして?」


ジーカイは少し顔を伏せて、気まずそうに言った。

「だって……前にチーハンが言ってた。君、まだ一人でバスに乗ったことがないって。だから一人で乗ってるのを見たら、ちょっと心配になって……」


その言葉に、ミッシェルはしばらく黙って目を見開いたままだった。

まさかそんな理由で来てくれたなんて思ってもみなかった。

「じゃあ……うちの近くからずっと自転車で?」


「うん。ほんとはサッカーしに行くつもりだったんだけど、君が乗るのを見て……なんか、頭の中が真っ白になって、“やばい”って思って、気づいたらペダル漕いでた」


汗でシャツが背中に貼りついているジーカイの姿に、ミッシェルの緊張が少しだけほぐれていった。

「それで……どうやってわたしを見つけたの?」


「君が乗ったバス、オレも前に何回か乗ったことあるから、大体のルートは分かってたんだ。それで、行けるとこまで行ってみようと思って」


ミッシェルは小さくうなずき、少し間をおいてきいた。

「でも……もし途中でわたしに会えなかったら、どうするつもりだったの?」


ジーカイはしばらく考えたあと、少し照れくさそうに笑って頭をかいた。

「うーん……あんまり考えてなかった。とにかく追いかけなきゃって、それだけで……」


ミッシェルはぱちぱちとまばたきして、ふっと吹き出した。

「……バカね、ほんとに」


さっきまでこわばっていた眉が、ようやくやわらかくほどけていく。


「で……これからどうするの? 帰り道、分かるの?」


ミッシェルは首を振って、小さな声で言った。

「行きと帰りが同じだと思ってたけど……ぜんぜん違ってて」


「うん、この路線は帰りに別の道を通るんだ。正しいバス停、教えてあげるよ」

ジーカイは空を見上げてから続けた。

「もう暗くなってきたし、自転車じゃ危ない。いっしょにバスで帰ろう。自転車はここに鍵かけて、週末にパパに車で取りに来てもらえばいいや」


ミッシェルはくすっと笑い、肩の力が少し抜けた。

心の中で渦巻いていた不安も、ほんの少し小さくなっていた。




(八)家に電話をかけたとき


「そうだ、ママに電話した? きっとすごく心配してるよ。」


「ううん……スマホ、持ってきてないの。」


「オレも持ってきてない。じゃあ、コンビニで電話借りよう。いっしょに行こう。」


二人が近くのコンビニに入ってお願いすると、店員さんは二人が子どもなのを見てすぐにレジの電話を貸してくれた。


ミッシェルは両手で受話器をしっかり握りしめ、自宅の番号を押した。数秒後、電話の向こうから、ママの声が聞こえてきた。焦ったような、それでいてほっとしたような声だった。

「ママ、わたし……今、『〇〇広場』にいるの。ジーカイくんといっしょ。さっき帰りのバスが見つからなくて……でも、これからジーカイくんがいっしょに正しいバスに乗ってくれるって……ごめんなさい、最初にちゃんと言っておくべきだったよね……もうすぐ帰るから、心配しないでね。」


少し間をおいてから、ミッシェルはそっと付け加えた。

「ママ……少しは熱下がった?」


電話の向こうから、ふっと笑うような声が返ってきた。優しくて、温かい声だった。

「うん、ちょっとよくなったわ。帰ってきたら、今日のこと、ゆっくり聞かせてね。」


ミッシェルはその言葉に胸が温かくなって、小さくうなずいた。


電話を切ると、ジーカイもレジにやって来て、同じ電話でお母さんに電話をかけた。

「ママ、オレ。いま外にいるけど、大丈夫。たまたまミッシェルに会って……迷いかけてたみたいだから、帰り道をいっしょに探してたんだ。これからいっしょにバス乗って帰るよ……暗くなってきたのは分かってるってば。すぐ帰るから。」


電話の向こうからは、心底ほっとしたような声と、少しお小言混じりの声が続いた。ジーカイは笑いながら言った。

「わかったって、帰ったらちゃんと話すよ。」


しばらくして、ミッシェルとジーカイのママたちは、四年二組の保護者グループにほぼ同時にメッセージを送った。

「うちの子、見つかりました。いま帰り道にいます。ご心配おかけしました。」


それをきっかけに、グループはまるで花火のように次々とメッセージで埋まっていった。


「よかった! 本当に心配だった……」

「無事でなにより、神さまありがとう!」

「この年頃の子が、あんなに遠くまで一人でバスで行っちゃダメだよね!」


一方で、四年二組の子どもたちのグループチャットにも「ピコピコピコ」と通知音が鳴り響いた。


「見つかったって! 二人ともいっしょに帰ってるって!」

「よかったー! さっきまで本気で心配してたよ!」

「ミッシェル、無事でよかった!」

「ジーカイも元気みたい、これで安心!」

「え、ジーカイってミッシェルのこと、探しに行ってたの?」

「なにそれ、カッコよすぎ!」


チャットは歓声と安堵であふれかえった。


そのころ、バス停のベンチでは、二人の子どもが肩を並べて座っていた。街灯の明かりが二人の顔を照らし、まるで、今生まれたばかりの友情にそっと優しい光を注いでいるようだった。




(九)そっと浮かんだ笑み


バスは街を静かに走っていた。窓の外の景色はすっかり夜に沈み、街灯だけが黒い夜に淡い黄色の輪を落としていた。


車内では、ミッシェルが窓際の席に座り、さきほど買った食材の入った袋を抱えていた。ジーカイはその隣に座り、しばらくのあいだ、どちらも口を開かなかった。聞こえるのは車輪が路面を擦る音と、乗客たちのぽつぽつとした会話だけだった。


やがて、ジーカイがふと顔を向けて、小さな声で話しかけた。

「なんで……あんなに遠くまで一人で行ったの?」


ミッシェルは食材の入った袋を見つめたまま、小さな声で答えた。

「ママに……ごはんを作ってあげたかったの。」


「ママ、具合悪いの?」


「うん……朝は元気だったのに、午後帰ってきたら熱が出てて。ママが疲れてるのを見て、ふと思い出したんだ。前にパパが病気になったとき、ママがフランス風の病人食を作ってたの。」


ジーカイは首をかしげた。

「どんなの? なんかすごそう。」


「ううん……ただのパスタに刻んだ白ハムを入れて、上にちょっとチーズをかけるだけ。でもうちに材料がなくて、この前ママといっしょに行ったショッピングセンターに買いに行こうって思ったの。」


そう言って、少し間をおいてから、静かに続けた。

「たぶん、ママに言ったら絶対ダメって言われたと思う。でも、どうしても手伝いたくて……」


ミッシェルは唇をかみしめて、こう付け加えた。

「それに……わたしもみんなみたいに、一人でバスに乗れるようになりたかったの。毎回びくびくするの、もうやめたくて。自分の力で大事なこと、やってみたかったの。」


ジーカイはしばらく黙って聞いていたが、やがて外の景色に目を向けて、ふっと笑った。

「じゃあ、今日のミッシェルはほんとにすごいよ。」とジーカイは言った。「一人でバスに乗って、道を調べて、買い物して……しかもママのお世話までして。」


ミッシェルは首を横に振った。

「でも結局、帰り方が分からなくなっちゃったし……ジーカイが来てくれなかったら、わたし、あのバス停で泣いてたかも。」


「うーん……もし泣いてたら、オレ逃げてたかも。泣いてる子、どうしていいかわかんないし。」

ジーカイは頭をかきながら、少し顔を赤くした。


ミッシェルはくすっと笑った。

しばらくして、ミッシェルはふと真剣な表情で彼のほうを向いた。

「ジーカイ……ありがとう。」


「ん?」


「今日のことも、それから前の書き込みのことも……謝ってくれたの、ちゃんと伝わってるよ。ほんとに、変わろうとしてるのが分かる。」


ジーカイは耳まで赤くして、うなずいた。

「オレも……変わりたいんだ。本当に、ミッシェルを傷つけようなんて思ってなかったし……」


そして、足元を見ながら、照れくさそうに小さな声で続けた。

「もしまた、一人じゃ怖いことがあったらさ……オレ、いっしょにやってあげるよ。」


ミッシェルは彼を見つめて、やさしく微笑んだ。

「じゃあ……ちゃんと覚えておくね。」


そう言ってからも、ミッシェルの視線はしばらくジーカイの顔にとどまっていた。


ジーカイはその視線に気づき、少し照れくさそうに顔をそらして窓の外を見たが、口元はふわっと笑っていた。


「覚えといてよ!」

ジーカイは何気ないふうを装って言ったが、その声には隠しきれない誇らしさが滲んでいた。


バスは暗くなった街を走り続けていた。


手をつないだわけでも、特別な言葉を交わしたわけでもない。

けれど二人の間には、確かな何かが、そっと芽生えつつあった。




(十)帰り道


バスは静かに停留所に停まり、ミッシェルとジーカイが前後して降りた。


空はすっかり暗くなり、街灯があたりを照らしていた。ミッシェルのマンションの前には何人もの人が集まっていた。


リン・チーハン、チョウ・ユーシュエン、チャン・ズーエン、リー・シンアン――みんなそれぞれ自分のお母さんといっしょに立っていた。ジーカイのお母さんも一番前にいて、二人がそろって姿を見せた瞬間、大きな声で呼びかけた。


「ジーカイ! 二人とも、やっと帰ってきたのね!」


みんながわっと駆け寄り、二人を囲んだ。


チーハンはミッシェルをぎゅっと抱きしめて言った。

「もう! すっごく心配したんだから! どうして一人で出かけたりしたの!」


リー・シンアンは大げさな顔をして言った。

「ぼくたち、宇宙人にさらわれたかと思ったよ!」


チャン・ズーエンとチョウ・ユーシュエンも、ほっと安堵のため息をついていた。


そのとき、マンションの入り口のほうから咳払いの声が聞こえた。

「ミッシェル。」


それはママの声だった。

ママは片手でドア枠にすがりながら、まだ少し具合が悪そうな顔をしていたが、目は鋭く、声は厳しかった。

「どうして何も言わずに出かけたの? クラスの子たちまで心配させて!」


ミッシェルはうつむき、小さな声で言った。

「ごめんなさい……ただ、ママに白ハム入りのパスタを作ってあげたかったの……すぐ帰れると思ってたの……」


ママは大きくため息をつき、目にうっすら涙を浮かべながら歩み寄ると、ミッシェルをぎゅっと抱きしめた。

「あなたはママの大事な宝物なのよ。手伝ってくれる気持ちはうれしいけど、それよりあなたの安全のほうが大事なの……」


そしてジーカイのほうを向いて、深く頭を下げた。

「本当にありがとう……あなたがいてくれて、本当によかった……」


ジーカイは慌てて手を振った。

「い、いいえ……ぼくはたまたま見かけただけで……」


「たまたまなんかじゃないって!」リー・シンアンが大声で言った。「うちのママが言ってたけど、ジーカイは自転車であのショッピングセンターまで追いかけたんだよ! あそこ、何キロもあるのに!」


みんなが「ええーっ!」と声を上げ、ミッシェルも目を見開いてジーカイを見た。


ジーカイはとっさに目をそらしながら、空を見上げるふりをした。

「えーっと……その、体力づくりだと思えばいいじゃん……」


ミッシェルはみんなの前に立ち、深く頭を下げた。

「ごめんなさい、みんなに心配かけて……それから、会いに来てくれて、本当にありがとう……」


チャン・ズーエンが小さな声で言った。

「今回は許すけど、次はちゃんとスマホ持って行ってね。」


「そうそう!」チーハンも加えて言った。「一度くらいなら許すけど、毎回ってわけにはいかないからね!」


みんなが笑い出し、ようやく空気がやわらいだ。


そのとき、ジーカイがぽつりと口を開いた。

「ねえ……今度の休みに、本物の冒険、してみない?」


「えっ? 冒険って何?」チョウ・ユーシュエンが目を丸くした。


「たとえばさ、みんなで一緒にバスに乗って、どこかに遊びに行くの。大人はなし、子どもたちだけで。今日みたいな感じでさ……あ、でも迷子は無しね!」


みんな顔を見合わせたあと、チーハンが一番にうなずいた。

「いいね!」


「オレも行く!」リー・シンアンが勢いよく言った。


チャン・ズーエンもチョウ・ユーシュエンも、それに続いてうなずいた。


ミッシェルはそんなみんなの様子を見つめながら、だんだんと微笑んでいった。

「うん……わたしも行きたい。」


そのとき、近くで聞いていた大人たちも、子どもたちの会話にうなずいて同意を表していた。


そのとき、ジーカイのお母さんが半分冗談めかして言った。

「でもね、スマホは絶対持って、時間どおりに帰るのが条件よ? もう人騒がせは禁止!」


みんなが笑いに包まれた。


子どもたちはその笑い声の中に、これまでにない自由と信頼を感じていた。


夜空には月が静かに浮かび、風が街角を優しく吹き抜けていった。




(十一)夜のつぶやき


その夜は、少しひんやりとしていた。


部屋の中には、机のスタンドライトだけが灯っていた。ミッシェルは椅子に座り、両腕でひざを抱えたまま、じっと窓の外を見つめていた。


ミッシェル(心の声):

今日は……はじめて一人でバスに乗った。

最初はすごく緊張したし、ちょっと怖かった。

頑張れば、チーハンやズーエンみたいに、強くてしっかりした子になれると思ってた。

でもあとで気づいたの。努力だけじゃ、どうにもならないこともあるんだって。

わたしはずっと「なんでも自分でできるようになること」が「大人になること」だと思ってた。

でも今は、少しだけわかった気がする——

必要なときに「助けて」って言えるのも、大事な勇気なんだって。


ジーカイ、ありがとう。

不器用で、言い方もまっすぐすぎるけど……本当はやさしい人。

言葉にはできなかったけど、わたし、すごくうれしかった。


……もしかしたら、わたしたち、本当にいい友だちになれるかも。


一方そのころ、ジーカイはベッドに仰向けになり、両手を頭の後ろに組んで、天井をぼんやりと見つめていた。


ジーカイ(心の声):

オレ、今日いったい何してたんだろ……思い返すとちょっとバカみたいだな。

ただミッシェルがバスに乗るのを見ただけなのに、急にものすごく焦って、何も考えずに追いかけてた。

どこからあんな力が出たのかもわかんない。ただ「行かなきゃ」って、それしか考えられなかった。


前のオレは、誰かに気づいてもらうには、目立って、しゃべって、カッコつけなきゃって思ってた。

でも本当は……本当に誰かの心に残るのって、その人が困ってるとき、そっとそばにいてあげられる人なのかもしれない。


今日、ミッシェルはこれまでみたいにオレのことなんか気にしてないふりはしなかった。

ただ静かにオレのことを見て、「ありがとう」って言ってくれた。


その瞬間、全部報われた気がした。


……たぶん、無理にカッコつけなくていいんだ。

ありのままの自分で、ちゃんと向き合えば、それでいいんだ。


夜風がカーテンをふわりと揺らした。


なんでもないようで、でも特別だった今日という一日。

二人の心のなかで、小さな「成長」が、そっと芽生えていた。

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