第一話 転校初日


(一)初登校の朝


朝の街には、夜の雨の名残がまだしっとりと残っていた。


ミッシェルは白い半袖のブラウスに濃い紺色のプリーツスカートをはき、新しいリュックを背負って、ママのそばに立っていた。

けれど、その足どりはどこかためらいがちだった。


彼女の目の前には「○○小学校」と書かれた校門があり、その光景を前に、しばらく言葉を失っていた。


「がんばって、ミッシェル。」

ママはフランス語でそうやさしく声をかけた。

その響きには、励ましと、少しの願いが混ざっていた。


ミッシェルは小さくうなずいたけれど、その顔にはどうしても気の進まない気持ちがにじみ出ていた。

(わたし、本当にここの学校に通わなきゃいけないのかな……?)


その問いは、もう何度も自分の中で繰り返してきた。

そして答えも、もうとっくにわかっていた。


パパの仕事の都合で、今は台湾で暮らさなければならない。

ママはよくこう言っていた。

「ここで生活するんだから、できるだけなじんでいかないとね。中国語を覚えて、お友だちをつくるのよ。」


そのときのわたしは、うなずいて「やってみる」とまで言った。

けれど、それはまだ、知らない校門の前に立つ前の話だった。


ミッシェルはそっと目を伏せ、視線を少しずつ校門のほうへ向けていった。


遅れて登校してくる何人かの生徒たちが、リュックを背負って笑顔で足早に校内へ入っていく。

そのうちの何人かが好奇心に満ちた目でちらりとこちらを見ては、ひそひそ話をしながら校舎の中に消えていった。


ママが続けて言った。

「先週、学校に行って担任の陳先生に面会したときのこと、覚えてるでしょ? 陳先生が“リン・チーハン”っていう女の子の名前を言ってたわよね? 学級委員で、とてもまじめで責任感のある子だから、あなたのことをお願いしてあるって。」


「……リン・チーハン……」

ミッシェルはその名前を小さな声でくり返した。

心のどこかに、しっかりと刻もうとするように。


彼女はまだ知らなかった。

その名前が、これから自分の心にどれほど深く残ることになるのかを。


母娘ふたりは校門をくぐり、「職員室→」と書かれた案内板にしたがって歩きはじめた。


ミッシェルは無意識のうちに、リュックの肩ひもをきゅっとにぎっていた。

肩が少しだけふるえていた。


彼女はわかっていた。

この瞬間から、自分はもう「ちょっと見に来ただけの旅人」ではないということを。


今ここで、見知らぬこの学校の一員になるのだということを。




(二)四年二組の教室


「今日、転校生が来るんだよ!」


リン・チーハンは自分の席に座って、机の中を整えながら言った。


「そうそう、フランスから来たハーフでしょ。」


チョウ・ユーシュエンがリュックを椅子の背にかけながら、小さな声でつけ加えた。

「先週、一回学校に来たんだよ。一組の子がたまたま見かけたって。それでさ、すげえ人形みたいにかわいかったってさ。」


「ふん、外国人が来たからって何さ。」

チャン・ズーエンは腕を組んで、冷たく言い放った。

「金髪で青い目だからって、だからなに? 中国語もろくに話せないんじゃないの?」


「でもさ、もしほんとに映画に出てくるお人形みたいだったら、毎日その子の隣に座って眺めたいな~!」

リー・シンアンの目がきらきらと輝いた。


リン・チーハンは彼をにらんで言った。

「シンアン、まるで外国人を見たことないみたいなこと言わないでよ。」


「えー、ほんとのこと言っただけじゃん……」

リー・シンアンは舌を出して、にやにや笑いながら席に戻った。


「陳先生があとで、本人を連れてくるよ。それでね、わたし、先生からお世話を頼まれたの。」

リン・チーハンは胸を張って言った。

その声には、ほんの少しの責任感と、言葉にしきれない小さな期待が混ざっていた。


「まじめだな、チーハン。」

チョウ・ユーシュエンが微笑んだ。

「でもさ、チーハンが学級委員だから、その子も安心だね。」


そのとき、ガオ・ジーカイがのそのそと教室に入ってきた。

スポーツバッグを背負っていて、ちょっと不機嫌そうな顔をしている。


「なに話してんの?」

彼は席につくと、口にくわえていた朝ごはんのパンをもぐもぐしながら言った。


「新しい子の話!」

リー・シンアンがすぐにそばに寄ってくる。

「フランスから来たんだよ、しかもめっちゃかわいいって!」


「ふーん。」

ガオ・ジーカイはパンをひとかじりすると、まったく興味なさそうに返事して、そのまま窓の外をぼんやりと見つめはじめた。


「あいかわらず、サッカー以外はどうでもいいんだな、あいつは。」

チョウ・ユーシュエンが小さな声で笑いながらつぶやいた。


リン・チーハンはちらりと教室のドアの方を見た。

胸の奥が少しだけドキドキして、でもどこか楽しみな気持ちもあった。


(どんな子なんだろう……ちゃんとお世話、できるかな?)




(三)教室へ入る、その瞬間


職員室で、ミッシェルはママのとなりに静かに座っていた。

両腕でしっかりとリュックを抱え、体を小さくしている。


向かい側の机にいた陳先生が、手にしていた書類を閉じて、にっこりとほほえんだ。

「ミッシェル、そろそろ教室に行きましょうか?」


ミッシェルは顔を上げて、ママのほうを見た。


ママはやさしく声をかけた。

「ママはね、もうちょっとここで手続きがあるの。終わったらいったん家に帰るけど、午後には迎えに来るから。がんばってね。」


ミッシェルはうなずいて、小さく「うん……」と声を出した。

でも胸の奥の緊張は、どうしても消えてはくれなかった。


ミッシェルはリュックを背負い、陳先生のあとをついて歩いていった。


階段の窓からは、やわらかな朝の光が差し込んでいて、先生とミッシェルの足音が、静かな空気の中に響いていた。


うつむいたまま、一歩一歩。

階段を曲がり、いくつかの教室の前を通り過ぎる。

壁の掲示板にはカラフルな絵やポスターが貼ってあって、

それらはどれも目に飛び込んできたけれど、まるで知らない言葉のように見えて、

ミッシェルの目は追いつけなかった。


そして、とうとう、前方に四年二組と書いた教室の札が見えてきた。

ドアの向こうからは、子どもたちのにぎやかな声がかすかにもれてくる。


(ここが……四年二組?)


どきん、と心臓が大きく跳ねた。


(わたし、やれる。……やってみるって言ったんだから。やらなきゃ……)


その気持ちを胸にぎゅっと握りしめた。


陳先生が微笑みながら教室のドアを開くと、まるでまぶしい光が教室の中から迎えてくれたように感じられた。


その光に吸い込まれるようにミッシェルは、彼女にとってまったく新しい世界へと足を踏み入れていった。




(四)教室で、はじめてみんなの前に立って


「みんな、おはよう。」


聞き慣れた声が、教室の入口から聞こえてきた。陳先生だった。


先生のそばには、金色の髪と青い目をした女の子が立っていた。

緊張したような表情でみんなを見ている。


教室は一瞬で静まりかえり、すぐに小さなざわめきが起こった。


「あの子がフランスから来た転校生?」

「髪の毛めっちゃ金色……なんかテレビに出てくる子みたい。」

「肌、すごく白いね。ハーフって感じじゃない……」


外国人を見たことはあっても、

ドラマや映画の中のような雰囲気をまとった子が、自分たちの教室の前に立っているのは初めてだった。


みんな興味津々だったけれど、どう反応すればいいのか分からないようで、

ひそひそと話す子もいれば、じっと見つめるだけの子もいた。


「ゲームのキャラみたいじゃん!」

リー・シンアンがまるで宝物を見つけたような声を上げた。


「うるさいよ。」

リン・チーハンが眉をひそめる。


チャン・ズーエンは首をかしげながら、ミッシェルの髪から足元までをじろじろと見て、どこか意味ありげに口元をゆがめた。


「みんな、静かに。」

陳先生が手を上げて合図した。


「こちらが、今日から四年二組に加わる新しいお友だち――ミッシェル・シュウさんよ。台湾人のパパと、フランス人のママのあいだに生まれて、最近フランスから引っ越してきました。これからみなさんと一緒に勉強します。」


ミッシェルはゆっくりと顔を上げた。

教室中の視線が、自分に向けられているのを感じる。


心臓がドキドキ大きな音を立て、思わずつま先にきゅっと力が入った。


(ちゃんと伝わるかな……言葉、間違えないかな……)


「わ……わたしは、ミッシェル・シュウです……」

声はとても小さく、すこしアクセントがあって、語尾が風に揺れる紙のようにふるえていた。

「よ、よろしく……お願いします……」



また、教室にさざ波のようなざわめきが広がった。

「なんか発音ちょっと変じゃない?」

「ちょっとつっかえてた……」


「静かに。」

陳先生の声はやわらかいけれど、しっかりとしていた。


「ミッシェルは、みんなの言うことはちゃんとわかります。でもまだ話すのはちょっとだけ慣れてないんです。どうか、みんなであたたかく見守って、助けてあげてくださいね。」


そう言ってから、先生はミッシェルの方を見て、教室の真ん中あたりにある空席を指差した。


「あなたの席はあそこ。隣に座っているのが学級委員のリン・チーハンよ。わからないことがあったら、何でも彼女に聞いてね。」


ミッシェルがそちらに顔を向けると、短い髪できりっとした目をした女の子が、じっとこちらを見ていた。


――この子が、リン・チーハン?

ミッシェルはその名前を心の中で繰り返した。


その目は強くまっすぐだけれど、どこかやさしさも感じられた。

なぜだか、その名前が少しだけ、親しみのあるものに思えた。


リン・チーハンも、ミッシェルを見つめていた。

――目が、本当に青い……それに、すごく澄んでる。


リン・チーハンには、ミッシェルのその目の奥に、ちょっとした緊張と、それを押しこめるような意志の強さが見える気がした。


ああ、この子は――こわいけど、頑張って立っていて、「だいじょうぶ、わたしはできる」って、言おうとしてるんだ。


ミッシェルはそっと自分の席に向かって歩き、静かに腰を下ろして、リュックを丁寧に足元に置いた。


すると、隣のリン・チーハンが少し体を傾けて、小さな声で話しかけてきた。

「はじめまして、ミッシェル。何かあったらいつでも聞いてね。わたし、手伝うから。」


ミッシェルはこくんとうなずいて、小さく「ありがとう……」と返した。


そのとき、急にリン・チーハンが後ろをふり返り、まだひそひそ話しをしている子たちに向かって言った。


「もういいでしょ。いつまでも人の見た目のこと言うの、すごく失礼だよ。」


教室は、ふたたびしんと静まり返った。


その沈黙を破るように、チャン・ズーエンがぽつりと言った。

「台湾とフランスのハーフなら、髪の毛ってもっと茶色になるんじゃないの? 金髪って、ちょっと変じゃない?」


「ズーエン。」

陳先生が静かな目で彼女を見つめた。


「髪や目の色は、遺伝子で決まるの。金髪や青い目のハーフの子だって、ぜんぜんありえないわけじゃないのよ。自分の知っていることだけで、他の人を判断しないようにしましょう。」


ズーエンはそれ以上何も言わず、ふいっと顔をそらした。


ミッシェルは、こっそりと彼女たちの方を見て思った。

(リン・チーハン……本当に、先生が言ってたみたいに、まじめで親切な子みたい。)

(でも、チャン・ズーエンって子は……ちょっと、言葉にトゲがあるみたい……)




(五)休み時間の混乱


一時間目の授業が終わると、教室は一気ににぎやかになった。

静かに席に座っていたミッシェルは、気づくとまわりを何人ものクラスメートに囲まれていた。


「ねえねえ、ほんとにフランスから来たの?」

「どの町?  パリ?  パリに住んでたの?」

「どうして中国語話せるの? 向こうで習ってたの?」

「フランスの学校って、こことはぜんぜん違うんでしょ?」

「そっちにもタピオカミルクティーってあるの?」


質問の波がいっせいに押し寄せてきて、ミッシェルの頭の中はすぐに真っ白になった。


何か答えようとしたけれど、舌がうまく動かない。

言っていることは全部理解できるのに、どこから話せばいいのか分からなかった。


息が少しずつ荒くなり、視線は足元の床へと落ちていく。

目があちこち泳いで、心は不安でいっぱいだった。


「ちょっと、みんな失礼だよ。まずは自己紹介でしょ!」

リン・チーハンが眉をひそめて、しっかりした声で言った。


チョウ・ユーシュエンがあわてて言う。

「ご、ごめん。ぼく、チョウ・ユーシュエン。副学級委員してます。よろしく!」


「ぼくはリー・シンアン!」

リー・シンアンはそう言いながら、ミッシェルの目の前にずいっと顔を近づけて、目をまん丸にしてのぞきこんだ。

「うわー、ほんとに目が青いんだね!」


「リー・シン・アン!」

チーハンのひと睨みに、リー・シンアンはすぐに肩をすくめ、両手を挙げて二歩うしろにさがった。


それを見て、他の子たちも次々と自己紹介を始めた。


「ぼく、ウー・ジエンホン。」

「わたし、チェン・ピンユー。」

「ぼくはワン・エンティン……」


チーハンは、まだ黙っているチャン・ズーエンに気づいて、声をかけた。

「ズーエン、あなたもお願い。」


ズーエンはふっと微笑み、一歩前に出て、やわらかい声で言った。

「チャン・ズーエンです。ようこそ。でも……うちのクラス、けっこう宿題多いよ?

ちゃんとついてこられるといいね。」


その口元には笑みがあり、声も静かだった。

けれど、その目に一瞬だけ走った光を、チーハンは見逃さなかった。


それは敵意ではなかったけれど、歓迎とも言い切れない、

まるで彼女とミッシェルのあいだに、ふっと線を引いたような感触だった。


チーハンは一瞬、言葉を失った。

どうしてか分からないけれど、ズーエンのその言い方に、かすかな違和感を覚えた。


チーハンは、その違和感を覆い隠すように笑いながら、こう言った。


「ズーエンは、うちのクラスでいちばん成績がいいんだよ。もし勉強で分からないところがあったら、教えてもらうといいよ。」


チーハンは、ズーエンのことを頭がよくてしっかりした友だちだと思っている。

だけど今日のズーエンのミッシェルに対する言葉は、なぜかチーハンの胸のどこかに小さな引っかかりを残した。


チーハンは今度は窓のほうを見て、まだ外をぼんやり眺めているガオ・ジーカイに声をかけた。


「ジーカイ、次はあなたの番よ。」


ジーカイは振り向いて、ミッシェルのほうを一瞬だけ見た。

何か言おうとしたのか、何も考えていなかったのか――よく分からないまま、すぐにまた窓の外へと視線を戻した。


けれどその一瞬の視線を、ミッシェルはしっかり感じ取っていた。

その瞬間、ミッシェル胸が、どきんと跳ねた。


チョウ・ユーシュエンがミッシェルのそばに来て、小さな声で言った。


「あいつはガオ・ジーカイ。いつもあんな感じでさ、頭の中はサッカーのことしかないの。でもほんとはいいやつなんだよ、たぶん照れてるんだ。」


そのときだった。

後ろから、リー・シンアンの手がすっと伸びてきて、ミッシェルの髪をそっと引っぱった。


ミッシェルはびくっと体を震わせ、反射的に振り返った。

その顔には驚きと不安が広がり、目にはちょっとした戸惑いと傷ついたような光が浮かんでいた。


「わあ、生まれて初めて金髪にさわった~!」


「リー・シンアン!」

リン・チーハンが鋭い声で制した。

「何してるの? 人の髪の毛はおもちゃじゃないよ!」


「よく見てみたかっただけだよ……」

リー・シンアンはしょんぼりと手を引っ込めた。


「もし自分が髪を引っぱられて、『ちょっと見たかっただけ』って言われたら、平気?」


「……いや。」シンアンは小さくつぶやいた。


チーハンは鼻でふっと息を吐いて、ミッシェルの方を向いた。

「痛くなかった?」


ミッシェルは小さく首を横に振って、ぽつりと「だいじょうぶ……」と言った。

でもその顔は赤くなっていて、目にはうっすら涙がにじんでいた。




(六)授業中の思わぬできごと


チャイムが鳴って、次の授業が始まった。


陳先生が算数の教科書を手に教室を見回す。

その視線がミッシェルのところで、ほんの少しだけ止まり、それからにこやかに言った。


「この問題、だれか挑戦してみたい人はいますか?……そうね、ミッシェル、これはフランスでも習ったことあると思うけど、やってみる?」


ミッシェルは顔を上げ、黒板の数式を見つめた。

それは、たしかにフランスで習ったことのある、基礎的な算数の問題だった。

答えも、ちゃんと頭の中には浮かんでいた。


けれど――立ち上がった瞬間、教室中の視線が、またいっせいに彼女に集まった。


手のひらが汗ばみ、のどがカラカラになる。


「えっと……ええと……」

その声は、まるで迷子の風のように、くるくると揺れてどこかへ消えていった。


そのとき、チョウ・ユーシュエンが小声で言った。

「この問題、簡単すぎるよね~。ぼくでも分かるし。」


それを聞いたクラスのみんなが、くすっと笑った。

教室の空気が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。


ミッシェルはチョウ・ユーシュエンの言った言葉の意味は分かった。

けれど、それが自分をかばってくれたのか、それともからかわれたのかが、よく分からなかった。


ミッシェルはそっと視線を落とし、そのまま静かに席に戻った。

顔色はすっかり青ざめていた。


「ちょっと、なにそれ。ぜんぜんおもしろくないよ。」

リン・チーハンが眉をひそめて、チョウ・ユーシュエンに小さい声で言った。


「ち、違うよ……ただ、緊張をほぐしてあげたかっただけで……」

ユーシュエンは小声で言い訳をした。


チーハンはそれ以上は何も言わず、

自分の席からそっと手を伸ばして、ミッシェルの肩を軽くぽんぽん、と叩いた。


――その手は、とてもあたたかかった。


ミッシェルはふり返らなかった。

けれど分かった。

それは、ミッシェル責める手でも、同情の手でもなくて、

何も言わずに「大丈夫よ」と伝えてくれる手だった。


そのとき、陳先生が明るい声で言った。


「じゃあ、チョウ・ユーシュエン。ミッシェルの代わりに答えてみる?」


ユーシュエンは一瞬ぽかんとしてから、ミッシェルのうつむいた背中をちらりと見て、口元を少しだけゆがめた。何かをふっと思いなおしたようだった。


「ええっと……この問題ね……あれ? なんか……わかんないかも。」


とぼけた顔で首をかしげて、しばらく考えるふりをしてみせた。


教室に笑いが起こった。


「えーっ!? さっき“簡単すぎ”って言ったじゃん!」

「そうそう、“ぼくでもできる”とか言ってたくせに~!」

「結局、自分もわかんないんじゃん!」


ユーシュエンは照れたように頭をかきながら、「ごめんごめん」と小声で笑った。


その様子を見ていたミッシェルは、思わず顔を上げた。

彼のとぼけた笑顔に、一瞬だけ驚いたけれど――

気がつくと、自分の口元にも、ちょっと笑みが浮かんでいた。




(七)お昼の時間


昼休みのチャイムが鳴ると、教室の中に給食の香りがふんわりと漂った。


今日の給食のメニューは、煮込みチキン、チンゲンサイとにんじんの炒めもの、しいたけとミートボールのスープ、白いごはんに、小さなオレンジの一切れ。


台湾の子どもたちにとっては、ごくふつうの日替わりランチ。

けれどミッシェルにとっては、まるで未知の世界への小さな冒険のようだった。


リン・チーハンの案内で、ミッシェルは慣れない手つきでステンレスの給食プレートを持ち、配膳の列へ並ぶ。


スープをよそうとき、手が少しふるえて、汁がこぼれそうになった。


「気をつけて、スープ熱いからね。」

チーハンがそっと声をかける。


ミッシェルはうなずいて、小さな声で「ありがとう……」と答えた。


両手でそうっとプレートを運び、席に戻る。

プレートを机の上に静かに置いて、椅子に座ろうとしたとき、チーハンがやさしく声をかけた。


「よかったら、わたしたちと一緒に食べない?」


その声は大きくなかった。

けれど、無理やりでも、おざなりでもなく、まっすぐでやさしい気持ちがこもっていた。


ミッシェルの胸の奥が、ふっと揺れた。

チーハンのその一言の中に、どこか、彼女がずっと求めていた温かさがあった。


顔を上げると、教室の向こう側の席で、チョウ・ユーシュエンとリー・シンアンが、笑いながらこっちに手を振っているのが見えた。


シンアンはオーバーな動きで「ごはんごはん」とジェスチャーまでして見せてくれる。

少しでも緊張をほぐそうとしてくれているのが分かった。


ミッシェルも笑おうと思ったけれど、唇がほんの少し動いただけで、また止まってしまった。


もし、今、あの中に入っていったら――

どうやって話しかければいいの?

何か変なことを言ってしまったら?

うまく通じなかったら、みんなはどう思うだろう?


わからなかった。自信もなかった。

胸がどきどきして、顔が少し熱くなる。


結局、ミッシェルはそっと首を横に振って、小さな声で言った。

「……ひとりで食べたい。いい?」


チーハンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにうなずいた。

「うん、もちろん。じゃあ、わたしあっちにいるからね。」


その声にも、表情にも、がっかりした様子はなかった。

ただ静かに、何ごともなかったかのように、仲間たちのところへ戻っていった。


ミッシェルは、その後ろ姿を見つめながら、心の中で小さくつぶやいた。


(ありがとう、チーハン……)


席に座り、箸を手に取る。けれど、どう使えばいいのか少し戸惑ってしまう。


——この赤いの、なんの野菜だろう?

——スープの中のまるいのは……お肉? それとも……?


ミッシェルは顔をしかめながらも、黙って箸を動かした。


——残しちゃダメ。

——ママが言ってた。「よその国では、ちゃんと敬意を持って、なじもうとしなさい」って。


一口一口、そっと、ゆっくり食べながら、表情はだんだんこわばっていった。


目の奥がすこし熱くなる。けれど、泣くのはがまんする。

ぐっとこらえて、ミッシェルは歯を食いしばるようにして、ごはんを口に運んだ。


教室のすみでは、陳先生が窓辺に立ち、子どもたちのようすを静かに見守っていた。


先生は、すぐにミッシェルのもとへは行かなかった。

周囲の子たちのひそひそ話を止めることもしなかった。


いま、大人がすぐに口を出すよりも大切なのは、子どもたち自身が気づき、変わっていくこと――


陳先生はそう考えていた。


先生の視線が一瞬、ミッシェルの顔にとまり、そして静かにうなずいた。

彼女はそのまま、教室の隅で、クラス全体をゆっくり見守り続けていた。




(八)放課後、ママの出迎え


下校のチャイムが鳴った瞬間、教室は一気ににぎやかになった。


子どもたちは次々とリュックを背負い、

仲のいい子と連れだって校門へと駆けていく。


ミッシェルは、少し遅れて、ゆっくりと荷物を片づけていた。

その手の動きは、どこかぎこちなく、周りの子よりもワンテンポ遅れている。


そのとき、陳先生がそっとミッシェルの机のそばへやってきた。

手には、一冊の連絡帳を持っていた。


「ミッシェル、これはあなたの連絡帳よ。」

その声はやさしく、午後の陽だまりのように、あたたかかった。


「今日のようすを、少し書いておいたから、

お母さんに見せてあげてね。明日持ってくるものも書いてあるわ。」


ミッシェルは連絡帳を受け取り、うなずいた。

「……ありがとうございます、先生。」


「今日は、とってもよくがんばってたよ。」

陳先生は微笑んで言った。

「明日は、もっとスムーズにいくといいね。」


ミッシェルは何も言わなかった。

ただ、リュックをぎゅっと胸に抱いて、力強く首を縦にふった。


リュックを背負って、人の波にまぎれるようにして、校門へと向かう。

胸の中には、いろんな感情がぎゅっとつまっていた。


校門のところで、ママが人ごみのうしろからミッシェルの姿を見つけ、そっと手をふった。


「どうだった? 今日一日。」

ママはかがんで、やわらかく微笑んでたずねた。


ミッシェルはうつむいたまま、小さな声でひと言だけつぶやいた。

「……うん、まあまあ……」


その声はとてもかすかで、午後の風に消えてしまいそうだった。


ママはそれ以上何も聞かず、ただ手を差し出した。


ミッシェルはその手を見つめて、しばらく立ち止まっていた。

そして、ゆっくりと――そっと、その手を握った。


指先がぎゅっとママの手のひらにからみつく。

そのわずかなふるえに、たくさんの言葉にできない思いがこもっていた。


ママは何も言わず、ただミッシェルのとなりを静かに歩く。


彼女には分かっていた。

この見知らぬ、にぎやかな国で、娘が今日どれだけがんばったかを。


家までの道すがら、ふたりは一言も話さなかった。

けれど――つないだ手と手が、すべてを語っていた。




(九)チーハンとユーシュエンが決めたこと


同じころ、リン・チーハンとチョウ・ユーシュエンのふたりは校門の近くで、

遠ざかっていくミッシェル母娘のうしろ姿をじっと見つめていた。

そのとき、チーハンの顔には、言葉にできない何かが浮かんでいた。


チーハンはふっと唇をかんでから、ユーシュエンのほうを向いて言った。


「ユーシュエン、いっしょに陳先生のところ行こう?」


「先生のとこ……?」

ユーシュエンは少し驚いて、ためらいがちに言った。

「え、でもさ……ぼく、先生と話すの苦手だし……」


「あなた、副学級委員でしょ。ちがうの?」


チーハンのまっすぐな視線に、ユーシュエンは小さく肩をすくめた。


「分かったよ……いっしょに行くよ。」


「先生、もう職員室に戻ってると思う。早く行こう。」


ふたりは足早に歩き出し、職員室へ向かった。


中では、陳先生が教材のプリントを整理していた。

ふたりの姿に気づいて、落ち着いた笑顔を見せる。


「先生、今日……ミッシェル、一日ずっと静かでした。きっと、すごくさびしかったんだと思います。」

チーハンがはっきりと言った。


「そうだね……」

ユーシュエンもうなずいた。

「お昼ごはんも、ひとりで食べてて。なんか、つらそうだった……」


陳先生はふたりの話を聞いたあと、少しのあいだ黙っていた。

そして、にこやかにこう言った。


「ふたりとも知ってる? 自分のよく知っている場所を離れて、ぜんぜん違う環境に来るって、すごく大変なことなの。」


「わたしたちは“あの子はどんな子かな?”って興味を持つだけじゃなくて、“みんなあなたの仲間なんだよ”って思ってもらえるようにしたいよね。」


「誰かにほんとうに受け入れられているって感じるのは、助けてもらったから、だけじゃなくて――『わたしはここにいても、ひとりじゃない』って思えたときなの。」


チーハンは迷わず言った。

「じゃあ、明日の朝、ミッシェルの家まで迎えに行ってもいい? ユーシュエン、いっしょに行こう! 先生、ミッシェルの住所教えてくれませんか?」


「えっ、家まで行くの……?」


ユーシュエンは目をまるくしたが、チーハンのまっすぐな目を見て、しばらくしてから小さくうなずいた。


陳先生はふふっと笑って、首を横に振った。

「その気持ちはとてもすてきだと思うわ。でもね、無断で住所を教えることは、先生にはできないの。」


そう言って、やさしくつけ加えた。

「でもね――明日の朝、ふたりが校門の前で待っていてくれたら、それだけで、ミッシェルには十分うれしいはずよ。きっと、あたたかい気持ちになるわ。」


チーハンは静かにうなずいた。

その目に、はっきりとした意志の光が宿っていた。


「うん。じゃあ、明日の朝、校門でユーシュエンといっしょに待ってる。」


陳先生も、ゆっくりうなずいた。


「夜、ミッシェルのお母さんに電話しておくわ。“明日、ミッシェルの友だちが校門で待ってるます”って。安心して来られるようにね。」




(十)ただ、そうするのが正しいと思ったから


夕暮れ時。

街には人の声があふれ、車の音と足音がまざりあって、夕方のにぎやかな交響曲を奏でていた。


リン・チーハンとチョウ・ユーシュエンは、学校の外に続く細い道を並んで歩いていた。

ふたりの背中にはリュックが揺れ、斜めから差す夕日の光が、その影にやわらかな金色を落としていた。


「ねえ、チーハン……」

しばらく黙って歩いていたユーシュエンが、ぽつりと口を開いた。

「どうして、そんなにあの子のこと気にかけるの?」


「えっ? どうしてって……?」

チーハンは少し首をかしげて考えこみ、

それから、まるで当たり前のように胸を張って言った。


「だって……わたし、学級委員だから!」


「でもさ、学級委員だからって、家の前まで迎えに行くなんて普通しないでしょ?」


「んー……たしかに、そうかもね……」


チーハンはふっと目を伏せて考え、それから肩の力を抜いて、照れくさそうに笑った。


「でもね……なんでって、うまく言えないや。ただ、そうしたほうがいい気がしたの。……なんか、きっと、そうすべきなんだって。」


ユーシュエンはそんなチーハンの横顔を見ながら、肩をすくめて笑った。

「ほんと、チーハンにはかなわないな……」


ふたりの足音は、やがて曲がり角の向こうへと消えていった。

夕方の風が、そっとその背中をなでるように吹き抜け、すべてを静かに、暮れなずむ空へと包みこんでいった。




(十一)夜の母娘のひととき


その日の夜、ミッシェルは自分の部屋で、ひざを抱えながら、静かにフランス語の絵本をめくっていた。


ページをめくる音だけが、小さな部屋のなかにそっと響いている。


そのとき、ドアの向こうから、やさしいノックの音が聞こえた。

ママが入ってきて、手にはあたたかいココアの入ったカップを持っていた。


「今日は、よくがんばったね。」

ママはミッシェルのそばにしゃがみ、やさしくそう言った。


「さっき、先生から電話があったよ。明日の朝、学校の門のところで、お友だちがいっしょに教室に行こうって待っててくれるんだって。」


ミッシェルは顔を上げた。その瞳に、ほんの少しの驚きがきらりと光った。


「……ほんとうに?」


ママはにこっと笑ってうなずき、そっとミッシェルの髪をなでた。

「明日はきっと、学校でいいことがあるよ。」


そのひとことは、まるであたたかい一滴の水のように、冷えきっていたミッシェルの心に、ふんわりとしみ込んでいった。


ミッシェルは、小さく、小さくうなずいた。

それはほとんど見えないほどの動きだったけれど、彼女の中では、そっと願いをかけるような、静かな約束だった。




(十二)ミッシェルのひとりごと


今日は……ほんとうに、いろんなことがあった。


まるで、聞き取れるけれど言葉がうまく出てこない――

そんな夢の中に放りこまれたみたいだった。


リン・チーハンは、せっかくあんなにやさしくしてくれたのに、わたしは「ひとりで食べたい」なんて言っちゃった……。


あのときのチーハンの目は、少しも責めてなかったけれど、自分がすごくイヤな子に思えて、その瞬間の自分が――どうしても好きになれなかった。


チャン・ズーエンは、とてもきれいで、頭の良さそうな子。

でも、話し方にどこかとげとげしいところがある。

わたしの気にしすぎ? それとも……何か気に入らないところがあったのかな。


チョウ・ユーシュエン――あの子、きっと答えが分かっていた。

なのに「わからないかも」って、とぼけて言った。

わたしに恥ずかしい思いをさせないようにしてくれたんだ。

たぶん、やさしい子なんだと思う。


リー・シンアン――あの子が悪気はなかったのは分かる。

でも、じっと見つめたり、髪の毛を引っぱったりって、やっぱりちょっと失礼よ。

でも……きっとただ、すごく興味があったんだよね。


ガオ・ジーカイだけが、何も聞いてこなかった。

まわりがどっと押しよせてきたとき、

あの子だけは、窓の外を静かに見ていた。

……なんだか、気になる。

いつか、ちゃんと話すチャンスがあるといいな。


そういえば、今日は――思ってたほど、怖くはなかったかもしれない。

みんな、思っていたよりずっとやさしかった。


なのに、わたしは「怖い」っていう理由だけで、自分から心にカギをかけてしまってた。


悪いのは、この場所じゃない。

ずっと、自分で自分を閉じこめてただけなんだ。


明日――

なにかが、少し変わるかもしれない。


もし、わたしがもう少しだけ、勇気を出せたなら。

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