第25話 対話

七右衛門が告げた「鬼の頭」という響きは、寺蔵の胸に、凍てついた湖の底で微かに揺れる泡のように、静かに昇ってきた。かつて、剣戟を交えたあの男が、もはや人ではないというのだ。その言葉は、遠い春の嵐の記憶のように、かすかな熱を伴って寺蔵の心に蘇った。


「人間をやめた……だと?」


七右衛門は、その言葉を、まるで呪いのように、繰り返し口にした。その眼差しは、いまだ瓦版の物語に囚われている。彼にとって、力とは、人を凌駕すること。鬼になるということは、力の極致を意味するのだろう。しかし、寺蔵にとって、それはただただ、深く、そして哀しい響きであった。


「黒曜刀はここにある。だが、これはもう、誰かを斬るためのものではない」


寺蔵は、七右衛門の熱に浮かされた瞳を、静かに見据えた。彼の言葉は、朝露のように澄み切っていた。


「これは、俺が道を誤らぬための、ただの道標に過ぎない」


七右衛門は、その真意を掴みかねていた。かつて、互いの命を賭けて争った男の変わりように、彼はただ戸惑うばかりであった。だが、寺蔵は構わなかった。彼の旅は、誰かを追い抜くためのものではない。それは、心の奥底へと向かう、果てなき巡礼の旅なのだから。

二人は、連れ立って東へ向かった。道中、彼らは数多の人間と出会った。泥にまみれ鍬を振るう百姓、橋の下で寂しげに笛を吹く盲目の男、人々の心を慰める旅の芸人一座。寺蔵は、彼ら一人ひとりの言葉に耳を傾け、その心の機微に触れた。もはや、刀を抜く必要はなかった。言葉と、わずかな思いやりだけで、固く閉ざされた人々の心は、静かに開いていった。それは、かつて麻実が、彼に差し伸べてくれた温かい光に他ならない。

七右衛門は、当初、この奇妙な旅に当惑していた。力こそ全てと信じてきた男にとって、寺蔵の行いは、まるで夢物語のようであった。しかし、日を重ねるごとに、彼もまた変わっていった。かつては策略と力で解決しようとした難事も、いまや人々のささやかな願いや悲しみに、静かに耳を傾けるようになっていた。


ある日の夕暮れ、二人は、小川の流れる緑豊かな小さな村にたどり着いた。村人たちは、まるで嵐を恐れる草花のように、どこか怯えていた。聞けば、近くの森に「鬼」が現れ、人々を脅かしているという。寺蔵は直感した。それは、七右衛門が語った、あの「鬼の頭」に違いない。


「···拙者が行こう···」


寺蔵は静かに言った。七右衛門は寺蔵を止めようと、その肩に手をかけた。


「待て、左思野よ。奴は人ではないのだぞ。その刀も抜かぬつもりか」


「左様」


寺蔵は、ただ一言、そう答えた。彼の心に、もはや恐れはなかった。あるのはただ、目の前の苦しみを救いたいという、清らかな願いだけであった。彼は、黒曜刀を腰に差したまま、木漏れ日差し込む森へと、迷いなく足を踏み入れた。

森の奥、ひっそりと佇む岩陰に、その男はいた。かつて、互いの刃を重ねた「鬼の頭」。だが、そこに立っていたのは、七右衛門が語るような、恐ろしき怪物ではなかった。彼はただ、静かにうずくまり、その瞳には、深い悲しみの淵が覗いていた。


「よう···久しぶりだな」


寺蔵の言葉は、森の静けさに溶け込んでいった。鬼の頭は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、かつての鋭い光を失い、まるで置き去りにされた童子のように、寂しげに揺れていた。


「お主···左思野か……俺は、もう人ではない」


その声は、錆びた鉄を擦り合わせたように、かすれていた。


「お主は、俺を討つために来たのか……?」


「いや」


寺蔵は静かに首を振った。


「ただ、お前に会いに来ただけだ」


寺蔵は、鬼の頭の傍らに腰を下ろした。彼は、鬼の頭がなぜ、人であることを捨てたのか、その心の奥底を探ろうとした。鬼の頭は、堰を切ったように語り始めた。彼は、人々が繰り返す争いの愚かさに絶望し、世の悲しみを力でねじ伏せようと、鬼となる道を選んだという。

寺蔵は、その痛みを、深く理解できた。それは、かつて自分が感じた、どうしようもない無力感と絶望に似ていたからだ。


「力だけでは、何も救えぬ」


寺蔵は、静かに語った。


「それは、俺が身をもって知ったことだ。お前は、人であることを捨てたかもしれない。だが、その心には、まだ、人を思う優しさが残っておる。お前が真に求めていたのは、力ではない。心の平穏だったのだ」


寺蔵の言葉は、まるで冷たい泉の水が、乾ききった大地に染み渡るように、鬼の頭の心を潤した。彼は、初めて、その言葉に、救いを見出した。

夜が明け、森に光が満ちる。寺蔵、七右衛門、そして鬼の頭となった男。彼らは、三人で新たな旅路についた。それは、もはや刀を交えるための旅ではない。人々の心に寄り添い、争いを鎮めるための、簡潔な旅であった。

彼らは、柔らかな朝の光を浴びながら、茨の道を進んでいった。



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武蔵野 the memory2045 @acidfreakkk-yomisen

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