第4話 仇討

武蔵野に吹き荒れる風は、もはや慰めではなく、新たな悲劇の序章を告げるようだった。寺蔵の前に立つ「団々そぼろ」の首魁は、不気味な笑みを浮かべ、その鎖鎌をゆっくりと構え直す。麻実の鮮血が、乾いた土に吸い込まれていく光景が、寺蔵の瞳に焼き付いていた。


「貴様ぁあああ!」


寺蔵の咆哮は、怒りだけではなかった。自らの無力さへの絶望、愛する者を守れなかった後悔、そして、すべてを奪った者への憎悪が、混じり合った獣の叫びだった。長刀を握る手に、さらに力が込められる。もはや、彼の心には迷いはなく、ただ、目の前の存在を滅ぼすことだけが、彼の全てを支配していた。

首魁の鎖鎌が唸りを上げ、寺蔵めがけて飛来する。寺蔵はそれを紙一重でかわし、一歩踏み込んだ。彼の動きは、もはや人間のものではなかった。研ぎ澄まされた獣の勘と、地獄の業火に焼かれたような憎悪が、その肉体を突き動かしていた。

長刀の一閃。首魁の腕を狙ったその一撃は、しかし、鎖鎌によって弾かれる。だが、寺蔵の攻撃は止まらない。流れるような連撃が、首魁を追い詰めていく。一太刀ごとに、彼の心に刻まれた痛みが、刃に宿っているかのようだった。

首魁もまた、必死の形相で応戦する。鎖鎌が空を切り裂き、血飛沫が舞い上がる。寺蔵の頬にも浅い傷がつき、血が滴り落ちる。だが、彼は痛みを感じていないかのようだった。その瞳は、獲物を狙う鬼そのものだった。

やがて、寺蔵の一撃が、首魁の防御を打ち破る。長刀は、首魁の胸を深々と貫いた。首魁は、目を見開いたまま、その場に崩れ落ちる。彼の瞳から、怨嗟の炎が消え失せ、代わりに、虚ろな光が宿った。


「蜂平……麻実……」


寺蔵は、倒れた首魁を見下ろしながら、掠れた声で呟いた。彼の長刀からは、血が滴り落ちている。しかし、彼の心は満たされることはなかった。復讐は果たされた。だが、失われた命が戻るわけではない。胸にぽっかりと開いた穴は、さらに大きくなったかのようだった。

夜が明け、武蔵野に朝陽が差し込む。血に染まった大地は、しかし、夜の間の出来事を何一つ語ろうとしない。寺蔵は、麻実と蜂平の亡骸を、自らの手で丁寧に土に埋めた。簡素な墓標を立て、その場に立ち尽くす。

彼は、長刀を鞘に収め、ゆっくりと歩き出した。彼の向かう先は、誰も知らない。ただ、この武蔵野の地を離れ、行くあてのない旅に出る。その背には、もう、人間としての温もりは感じられない。だが、その瞳には、かつて彼を人間へと繋ぎ止めていた唯一の楔が砕け散り、真の鬼として生まれ変わった、新たな決意の光が宿っていた。

武蔵野の風が、彼の黒い髪を撫でるように吹き抜けていく。寺蔵は、二度と振り返ることなく、地平線の彼方へと姿を消した。


寺蔵が武蔵野を後にし、幾日かの時が流れた。


彼の足は、東の都へと向かっていた。道中、彼は人里を避け、山間部を縫うように進む。その表情には、もはや人間的な感情の機微はなく、ただ冷徹な決意が宿っていた。飢えや疲労も、彼には届かないかのようだった。彼のすべては、復讐という業火に焼かれ、ただ前へ進むことだけが彼の存在理由だった。


ある日、鬱蒼とした森の中を進んでいた寺蔵の前に、一人の男が立ち塞がった。男は、顔に大きな傷跡があり、その手には小太刀が握られている。その殺気に満ちた眼光は、寺蔵を射抜くようだった。


「待っていたぞ、寺蔵……」


男の声は、恨みを込めてねっとりと響く。寺蔵は、男の顔に見覚えがあった。それは、以前蜂平と相対した「団々そぼろ」の残党、茶介だった。


「貴様……誰だ」


寺蔵の問いに、茶介は嘲るように笑った。


「親分は、俺たちに言ったんだ。『もし自分に何かあったら、寺蔵という男を探し出し、必ず殺せ』と。そして俺は、その言葉に従うまでだ」


茶介の小太刀が、鈍く光る。寺蔵の長刀が、音もなく鞘から抜かれた。武蔵野での戦いが、新たな場所で再び幕を開けようとしていた。茶介の瞳には、兄貴分である首魁の仇を討つという、明確な殺意が宿っていた。


茶介の小太刀が、寺蔵の喉元目掛けて閃く。その動きは、見る者すべてを欺くような素早さだった。だが、寺蔵の反応は、茶介のそれを遥かに凌駕していた。彼は、まるで背中に目があるかのように身を翻し、小太刀の一撃を寸前でかわす。そして、その反動を利用するかのように、長刀を横薙ぎに払った。

キン、と甲高い金属音が森に響き渡る。茶介は、小太刀で寺蔵の長刀を受け止めていた。その表情には、驚きと焦りが浮かんでいる。寺蔵の動きは、以前よりも格段に研ぎ澄まされていた。それは、ただの剣術ではなく、復讐の念が具現化したかのような、純粋な殺意の塊だった。


「ちぃっ!」


茶介は舌打ちし、再び小太刀を繰り出す。その攻撃は、以前にも増して苛烈だった。突き、払い、切り上げ。小太刀の短い間合いを最大限に活かし、寺蔵の懐に潜り込もうとする。しかし、寺蔵は冷静だった。彼は、茶介の攻撃を最小限の動きで受け流し、隙を伺っていた。彼の長刀は、まるで生き物のように、茶介の攻撃に合わせて舞い、そして、一瞬の好機を待っていた。

やがて、その時が訪れる。茶介が放った突きを、寺蔵は紙一重でかわし、同時に半歩踏み込んだ。茶介の懐に飛び込んだ寺蔵の長刀が、下から突き上げるように閃く。


「ぐっ……!」


茶介の胸に、浅い傷が走る。血が滲み、地面に滴り落ちる。茶介は後退し、息を荒げた。寺蔵の攻撃は、正確かつ容赦ない。まるで、彼の憎悪そのものが、刃となって襲いかかってくるようだった。


「このっ……化け物が……!」


茶介は、怨嗟の声を上げた。彼は、もはや目の前の男を人間とは思っていなかった。それは、すべてを奪われた怒りと悲しみが生み出した、真の鬼。茶介は、小太刀を両手で構え、寺蔵に向かって一直線に突進した。自らの命を顧みない、捨て身の攻撃だった。

寺蔵は、その突進を冷徹な瞳で見据えていた。彼は、一歩も動かない。茶介の小太刀が、寺蔵の心臓目掛けて突き出される。その瞬間、寺蔵の長刀が、雷光のごとく閃いた。


キン、という音が響く。茶介の小太刀は、寺蔵の長刀に受け止められていた。だが、寺蔵の刃は、そのまま滑るように茶介の小太刀を逸らし、その腕に深々と食い込んだ。


「がぁああァ!」


茶介の絶叫が、森に響き渡る。小太刀が、その手から力なく落ちる。寺蔵は容赦なく、長刀をさらに深く突き刺した。茶介の体から、大量の血が噴き出す。彼は、膝から崩れ落ち、寺蔵を見上げた。その瞳には、もはや憎しみはなく、ただ純粋な恐怖だけが宿っていた。


「ま、まさか……こんな……」


茶介の口から、血の泡が漏れる。彼は、寺蔵の足元で息絶えた。その命が消え去る瞬間、寺蔵の表情は、微動だにしなかった。復讐は果たされた。だが、彼の心は、依然として虚ろなままだった。麻実も、蜂平も、決して戻らない。この世のどこを探しても、彼らの面影を見つけることはできない。

寺蔵は、長刀から血を払い、鞘に収めた。森には、再び静寂が戻っていた。しかし、その静寂は、寺蔵の心には響かない。彼は、茶介の亡骸を顧みることなく、再び歩き出した。彼の旅は、まだ終わっていなかった。いや、むしろ、終わりのない旅の始まりなのかもしれない。

彼の向かう先は、誰も知らない。東の都を目指すという漠然とした目的地はあったが、彼の心の奥底では、どこにもたどり着けないことを知っていた。彼の体には、もはや人間としての温もりは感じられない。だが、その瞳には、かつて彼を人間へと繋ぎ止めていた唯一の楔が砕け散り、真の鬼として生まれ変わった、新たな決意の光が宿っていた。

武蔵野の風が、彼の黒い髪を撫でるように吹き抜けていく。その風は、彼の背を押すように、あるいは、彼の心に残されたわずかな人間性を奪い去るように、冷たく吹き荒れていた。寺蔵は、二度と振り返ることなく、森の奥深くへと姿を消した。彼の旅は、血と狂気に彩られた、永遠に続く悲劇の舞台の始まりだった。そして、その旅路の果てに、彼を待つものが何であるのか、誰も知る由はない。彼はただ、鬼として、己の業を背負い、歩き続けるだろう。






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