第2話 友
「やめなさい!」
その声は、武蔵野の殺伐とした空気を一瞬で塗り替えた。透き通るような、しかし確固たる意志を秘めた声。寺蔵の長刀が蜂平の首筋に触れる寸前、その刃はぴたりと止まった。
声の主は、麻実だった。陽光を浴びて輝く長い黒髪が、風に揺れている。彼女は、血の匂いが充満する武蔵野の真ん中に、まるで天上の者のように立っていた。その瞳は、寺蔵と蜂平、二人の男をまっすぐに捉えている。
寺蔵の目に、ほんの一瞬、動揺の色が浮かんだ。彼の長刀を止めることができるのは、この世でただ一人、麻実だけだ。麻実は、蜂平の元恋人であり、今は寺蔵の腕に抱かれる女。その存在が、彼の「鬼」と化した心を、かろうじて人間へと繋ぎ止めている唯一の楔だった。
「麻実…なぜここに」
寺蔵の声は、いつもの暢気さとも、先ほどの鬼気迫る冷徹さとも違う、どこか不安定な響きを帯びていた。
「止めに来たのよ!これ以上、あなたたちが争うのを…」
麻実の視線が、血まみれの「団々そぼろ」の残党へと向けられる。彼らは、すでに戦意を喪失し、震えながら地面に這いつくばっていた。その視線の先に、恐怖と絶望の色を浮かべた蜂平の姿があった。
蜂平は、麻実の出現に、一瞬言葉を失っていた。彼にとって麻実は、憎悪の源であると同時に、決して失いたくなかった、命よりも大切な存在だった。その麻実が、血塗られた武蔵野の真ん中で、自分たちの争いを止めようとしている。
「麻実…なぜ、よりによって貴様が…」
蜂平の声は、か細く、そして苦痛に満ちていた。彼の脳裏には、麻実を寺蔵に奪われたあの日の記憶が鮮明に蘇る。あの時感じた絶望と憎悪が、再び胸を締め付けた。
「蜂平、もうやめて。これ以上、誰も傷つけないで」
麻実は、ゆっくりと蜂平に近づいていく。その歩みは、迷いなく、そして慈愛に満ちていた。蜂平は、麻実のその優しさに、思わずたじろいだ。彼の冷酷な心に、わずかな亀裂が入る。
その時、蜂平の背後から、血を流しながらも立ち上がろうとする「団々そぼろ」の男がいた。鎖鎌を振り上げ、無防備な麻実の背中を狙う。寺蔵がそれに気づき、再び長刀を構えようとした、その刹那――。
「麻実、危ない!」
蜂平が、麻実を突き飛ばした。その瞬間、男の鎖鎌が、蜂平の脇腹を深く抉った。
「ぐっ…!」
蜂平の口から、呻き声が漏れる。血が、土の上に飛び散った。麻実は、突き飛ばされた勢いで地面に倒れ込み、目を見開いてその光景を見つめていた。蜂平は、膝から崩れ落ち、鎖鎌を握る男を睨みつけた。
「て…めえ…!」
蜂平は、最後の力を振り絞り、十手を男に投げつけた。十手は、男の顔面に突き刺さり、男は絶叫を上げて倒れ伏した。
寺蔵は、目の前で起こった出来事に、怒りに震えていた。長刀を握る手が、白くなるほど力を込めている。
「蜂平…貴様…!」
その時、武蔵野の空に、無数の黒い影が舞い上がった。それは、鴉の群れだった。血の匂いに誘われて集まってきたのか、それとも、この悲劇の終焉を見届けるために現れたのか。鴉の鳴き声が、どこか不吉に響き渡る。
蜂平は、脇腹を押さえ、麻実をじっと見つめた。その目に、憎悪の色はもうなかった。ただ、後悔と、そしてかすかな安堵が浮かんでいる。
「麻実…お前が、無事なら…それで…いい…」
蜂平の意識が、遠のいていく。その体から、力が抜けていくのがわかる。
麻実は、震える手で蜂平に駆け寄った。その瞳には、大粒の涙があふれている。
「蜂平…蜂平!」
寺蔵は、長刀を鞘に収めた。彼の顔からは、鬼の表情が消え、いつもの腑抜け者に戻っていた。しかし、その瞳の奥には、深い悲しみと、そして静かな決意が宿っていた。
武蔵野の風が、再び乾いた音を立てて吹き抜けていく。血の匂いと、土埃の舞う中で、三人の人生は、大きく、そして決定的に変わってしまった。
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