武蔵野

the memory2045

第1話 1845

西暦1845年、武蔵野の風は、人の営みをどこか諦めたように乾いていた。草深い小道を行く一人の男。左思野寺蔵は、今日もまた、春と見紛うばかりの陽光の下、ひたすらにぼんやりと歩を進めていた。腰に差した長刀は、彼の日々の倦怠を映すかのように、ただ静かに鞘に収まっている。


寺蔵は、普段は絵に描いたような腑抜け者だった。道端に咲く野花に見とれては立ち止まり、空を飛ぶ鳥の群れを追いかけては、行き先を忘れる。その柔和な面差しからは、とても腕の立つ侍などとは想像もつかない。まるで世の憂いとは無縁の仙人のよう。しかし、そんな彼の本性を知る者は、武蔵野に数えるほどしかいない。

その日は、寺蔵にとって、また一つ、忘れ得ぬ日となるはずだった。


「よう、寺蔵」


不意に、背後から投げかけられた声に、寺蔵はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、見慣れた顔。幼馴染みである蜂平だ。蜂平の目は、寺蔵に向けられるたびに、いつもどこか憎悪の色を宿していた。その視線に、寺蔵は気づかないふりをして、暢気な声を上げた。


「おお、蜂平ではないか。久しぶりだな」


「久しぶり、か。お前にはそうだろうな」


蜂平の声は、冷たく、そして鋭かった。その手には、愛用の十手が握られている。腰には脇差。いつでも獲物を仕留められるとでも言うように、その殺気を隠そうともしない。


かつて、蜂平は寺蔵にとって、唯一無二の親友だった。共に剣の道を志し、汗を流し、夢を語り合った日々。だが、ある日を境に、二人の間には拭い去れない溝が生まれた。それは、麻実という一人の女を巡る、取り返しのつかない出来事。蜂平にとって麻実は、命よりも大切な存在だった。しかし、その麻実が、よりにもよって寺蔵の腕に抱かれているのを目撃した時、彼の心は憎悪に染まったのだ。


麻実は、蜂平の元恋人だった。しかし、寺蔵と出会い、その穏やかな人柄に惹かれ、彼のもとへと去った。麻実の腰はしなやかに括れ、歩くたびに揺れる美尻は、男たちの目を奪う。寺蔵もまた、その魅惑的な容姿に心を奪われた一人だ。


「貴様には、二度と会いたくなかった」


蜂平の言葉が、武蔵野の静寂を切り裂いた。寺蔵は、その言葉にも表情一つ変えず、ただそこに立っている。だが、蜂平は知っていた。その惚けた表情の奥に潜む、鬼のような一面を。一度死合となれば、寺蔵は人が変わる。相手に一切の隙を与えず、一寸で斬り捨てる。その斬撃は、神速を超え、死神の牙のようだった。

その時、風向きが変わった。草木がざわめき、土埃が舞い上がる。その中に、いくつもの影が混じっていた。


「ほう、見事な殺気だ」


蜂平の背後から現れたのは、奇妙な集団だった。全身を黒装束に包み、顔には不気味な模様の面。彼らは、闇に生きる者たち。「団々そぼろ」。武器は鎖鎌。彼らは、武蔵野の裏社会を牛耳る、悪名高き集団だった。


「蜂平、貴様もグルか」


寺蔵の目が、初めて光を帯びた。それは、これまで見せていた鈍重な光ではなく、獲物を狙う獣のような鋭い輝き。空気は張り詰め、殺気が満ちる。


「貴様を、この武蔵野で地獄へ落とすためだ」


蜂平は、冷酷な笑みを浮かべた。彼の心には、ただ一つ、寺蔵への復讐だけが宿っていた。

武蔵野の空の下、静かに、だが確実に、血の匂いが漂い始めていた。


寺蔵の視線が、蜂平から「団々そぼろ」へと滑る。面の奥から覗く眼光は、まるで獲物を前にした飢えた狼のそれだった。彼らは、鎖鎌を音もなく構え、寺蔵を取り囲むように間合いを詰めてくる。その動きには一切の無駄がなく、熟練された暗殺者の技が垣間見えた。


「随分と、大層な歓迎だな、蜂平」


寺蔵の声には、先程までの暢気さは微塵も感じられない。低い、だが芯の通った声が、武蔵野の空に響き渡る。その瞬間、彼の身から放たれる気迫は、周囲の空気を震わせるほどだった。

蜂平は、その変化を、まるで待ち望んでいたかのように愉しげに眺めている。


「お前がそう変わることを、待っていたぞ。これで、気兼ねなく地獄へ送れる」


「団々そぼろ」の一人が、沈黙を破り、鎖鎌を振るった。鎌の切っ先が風を切り、寺蔵の首筋を狙う。だが、寺蔵は微動だにしない。まるで、その攻撃が見えていないかのように。鎖鎌が彼の肌に触れる寸前、寺蔵の長刀が、雷光のような速さで鞘から抜き放たれた。


ヂャキィィン!


甲高い金属音が響き渡り、鎖鎌の刃が弾き飛ばされる。寺蔵の長刀は、まるで生きているかのように、一瞬で相手の懐に食い込んでいた。袈裟懸けに振り抜かれた刃が、黒装束の男の胸を深々と斬り裂く。男は呻き声を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。

わずか一瞬の出来事。その神速の剣捌きに、蜂平の目が見開かれる。彼は、寺蔵が「鬼」と化すことを知っていたが、これほどまでとは。


「団々そぼろ」の残りの者たちが、一斉に襲い掛かる。彼らは、鎖鎌の分銅を回転させ、予測不能な軌道で寺蔵へと投げつける。しかし、寺蔵の目は、彼らの動きを完全に捉えていた。彼は、まるで舞うかのように軽やかに身を翻し、飛来する分銅を紙一重でかわしていく。その動きは、見る者を魅了するほどに優美で、同時に恐ろしいほどに効率的だった。

一歩、また一歩と、寺蔵は相手の間合いに入り込む。そして、その度に長刀が一閃し、新たな血の花が武蔵野の土に咲く。彼は、ただ斬る。迷いなく、ためらいなく、そして容赦なく。その顔には、一切の表情がない。ただ、鬼の形相で、次々と襲い掛かる敵を屠っていく。

鎖鎌の鎖が寺蔵の足元に絡みつく。別の男が、その隙を狙って鎖鎌を振り下ろした。だが、寺蔵は一瞬で鎖を断ち切り、その男の頭上を狙う。その一撃は、まるで最初からそうなることが決まっていたかのように、正確無比だった。


「物の怪め…!」


蜂平の口から、無意識にそんな言葉が漏れる。目の前で繰り広げられるのは、もはや人間の所業ではない。寺蔵は、そこにいる誰もが、彼の敵ではないとでも言うかのように、淡々と、そして確実に、敵の数を減らしていく。

残る「団々そぼろ」の数も、わずかとなった。彼らの動きには、すでに焦りの色が滲んでいる。恐れが、その冷静さを奪っていた。


その時、寺蔵の長刀が、大きく弧を描いて振り上げられた。狙いは、蜂平。蜂平は、慌てて十手と脇差を構える。彼の顔には、憎悪に加えて、初めて見る種類の感情が浮かんでいた。それは、恐怖。


「蜂平、貴様の弱さを、今、ここで教えてやる」


寺蔵の言葉が、冷たい風に乗って蜂平の耳に届いた。次の瞬間、寺蔵の長刀が、蜂平の首元へと迫る。その神速の斬撃を、蜂平は避けることができないと悟った。だが、その時、予想だにしなかった横槍が入った。





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