第5話『収穫祭前夜――スキルとパンと、小さな約束』
朝の空気はひんやりしていたが、石窯の前は心地よい熱に満ちていた。
レシピ帳の走り書きには、こうあった。
「豆を生地に混ぜるときは細かく刻むと、焼きあがったときに香ばしさが増す」
しかし、分量や焼き加減は書かれていない。
その判断を助けてくれるのが、スキル《暮らしの知恵》だった。
「豆は、前夜に水で戻してから炒ると苦みが抜ける。石窯の火は、強すぎると表面だけ焼けて中が生になる。薪は片側から足すと安定しやすい」
ふと湧くように得られる実用的な知識。
レシピ帳はヒント、スキルは実地の補助。両者がかみ合うことで、悠の暮らしはどんどん形を成していった。
「――よし、あとは焼くだけ」
小屋の中にパンの甘い香りが立ちこめてきた頃、森の道から声が響いた。
「悠さーん! こんにちはー!」
扉を開けると、リクトとミナ、それに彼らの祖母が立っていた。
「おばあちゃんも一緒に来てくれたんですね」
「昨日、うちの孫が世話になってな。森の小屋から、ええ匂いがしたって言うとったんで、気になって来たんよ」
「どうぞ、中へ」
小屋に入った三人は、窓際のテーブルに並べられたパンの籠を見て声を上げた。
「わぁ……これ、全部明日の収穫祭用?」
「はい。全部で三十個くらいになりそうです。甘煙豆を混ぜたプレーンなものと、果実ペースト入りの二種類です」
「すごいな……全部ひとりで?」
「前の住人のレシピ帳と、僕の持っているスキルに助けられています。スキル《暮らしの知恵》っていうんですが、こうやって“何をどうすればいいか”が自然と浮かぶように分かるんです」
おばあちゃんが感心して目を細めた。
「なんや、あんたはほんまにええスキル持ってるんやねぇ。でも、どれだけええもん持ってても、活かそうと思わなあかん。その心があるから、こんなにあったかいパンが焼けるんやろねぇ」
悠は照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
そのとき、石窯の奥から「バチッ」と火花が飛んだ。
すぐさま覗き込むと、格子の鉄が一部崩れていた。前の住人の時代から使われていたもので、どうやら限界が来ていたようだ。
「……このままじゃ、窯が使えないかもしれない」
スキルが反応する。
「同程度の厚みの鉄網があれば、左右を石で固定することで応急処置が可能」
悠は振り返る。
「代わりになる網があれば……応急処置で、なんとかいけそうです」
すると、おばあちゃんがぱっと手を打った。
「あるある。わしの家に古い焚き火用の網があったわ。庭で猫が寝とるだけやけど、あんたが使ってくれるなら本望や」
「ありがとうございます!」
リクトが急いで村へ取りに戻り、残された悠とミナは、焼きあがったパンの包みに取りかかった。
「この包み紙、草の繊維を混ぜて作ってみました。丈夫になるって、スキルが教えてくれたんです」
「えー、すごい。なんでもできちゃうんですね、悠さん!」
「ううん。僕じゃなくて、スキルとこのノートのおかげです」
パンを籠に並べ、全部で三十六個。
まるで小さな店の開店準備のようだった。
やがて戻ってきたリクトの手には、年季の入った鉄の網。
「ありました。サイズは少し大きいけど、これなら……」
悠は、スキルに従って石で両端を固定し、火入れのテストをする。
薪を足すと、火が穏やかに広がっていく。
「……いける。これで、明日も焼けます」
三人が安心して笑顔を交わすなか、夕暮れの光が差し込み、森の中に影が伸びていく。
ひとりだったはずの異世界暮らしに、こうして少しずつ誰かが関わり、温度が加わっていく。
悠はふと、レシピ帳を手に取り、最後のページにさらりと一行を書き加えた。
「網、交換。おばあちゃんに感謝。火の安定◎」
収穫祭前夜。森の小さなパン職人は、明日のために最後の準備を整える。
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