真夜中過ぎの水妖(オンディーヌ)
106NARAHARA
第一章 飛沫の中で
指がプールの壁を確かにタッチした。
酸素を求める身体。
水面から顔をあげ、大きく息を吸い込みながら、電光掲示板に目をやる。
そこに表示された信じられないタイムを自分が叩き出したのだと認識するのと、隣のコースを泳ぐ絶対王者と呼ばれる選手がフィニッシュするのと、どちらが早かっただろう。
一瞬、時間が止まる。
歓声が聞こえない。
スタート台の白い光、跳ねた水飛沫、隣のレーンで立ち上がる影。
どれも現実味がなかった。
“信じられませんっ!男子1,500メートル自由形!番狂せ!若干17歳の新生に絶対王者が敗れましたっ!朝日直人選手っ、やりましたっ!”
“見事な泳ぎでしたね。後半、全くペースが落ちなかった。王者の技巧に若さのスタミナが勝ったということですかね。いや、朝日選手、見事な泳ぎだっ!”
実況席でアナウンサーと解説者が興奮気味に叫んでいる。
中継のカメラは、喜びよりもポカンとした表情て掲示板を見る直人の顔を抜いている。
周囲の歓声はは直人には届いていない。
信じられない思いで掲示板を見る。
1という数値の横にはアルファベット表記の直人の名前。
「……俺が、勝った……?」
震える唇から漏れた言葉は、ゴーっという騒音に消される。
その自分を包む激しい騒音が、彼に向けられた歓声だということに、直人はようやく気付く。
信じられないが事実だ。
フィニッシュの瞬間、彼の身体は水とひとつになっていた。
脚から腕へ、腕から指先へ。
すべての動きが無駄なく繋がり、まるで水が先に進路を示してくれていたようだった。
それはただの技術ではない。訓練でも、努力でもなかった。
もっと根源的な――祝福のような、何か。
呼吸が荒い。
けれど心は、不思議と落ち着いていた。
耳の奥で、水音とは別の何かが囁いている。
(ヒメ……)
誰にも話していない。
誰にも、話せない。
それでも、自分の中ではずっとそう呼んできた。
水の中で、背中を支えてくれるような、誰か。
ただの幻覚でも、想像でもない。
確かにそこに“いる”という確信だけが、胸の内側に、静かに、確かに残っている。
直人はコースロープに両手をかけ、重たい身体をゆっくりと安定させる。
プールサイドでコーチと顧問が狂喜しているのが見えた。
そして、肩越しに観客席を見る。
その中に、ひときわ目立つひとりの少女がいた。
関係者席で顧問や応援に来てくれた水泳部員とともに立ち上がる彼女はまっすぐにこちらを見ていた。
瞳は驚きと歓喜、そしてほんの少しの戸惑いを孕んでいるようだ。
(百合香……)
直人の同級生、そして、直人からの熱烈にアタックの末にできた彼女。
思わず、そちらに向かいガッツポーズを取る。
彼女のために泳いだ。
そう思っていたはずだった。
けれど――最後のターンを切った瞬間、脳裏にあったのは彼女の顔ではなかった。
あの、音もなく触れてくる存在の気配。
水の中でそっと背を撫で、呼吸の代わりに胸を満たしてくれるもの。
それが、直人を“前へ”運んだのだ。
「朝日直人選手、優勝です!大番狂わせ!大金星!絶対王者が若き新星に破れましたっ!」
実況席は異様な興奮に包まれ、同じ内容を繰り返している。
夢のような浮遊感は増すばかりだ。
波のように、どこまでも広がって。
直人はただ、立ち尽くしていた。
頭では理解していても、身体がついてこない。
本当に……本当に勝ったんだろうか、、、
実感が湧かない。
そのとき、隣のレーンから大きな水音が聞こえる。
横を向くと濡れた肩をゆっくりと持ち上げる男の姿があった。
絶対王者、瀬口だった。
短く刈られた髪の隙間から滴る水。
無駄のない筋肉の塊が、水から姿を表すたびに飛沫があがる。
日本水泳界の絶対王者として何年も君臨してきた存在。
それこそ、水に祝福された存在。
誰もが彼の名を畏れ、追いかけ、そして届かなかった。
だが今、彼は敗者として、プールの中にいる。
そして、その立場に彼を追いやったのは直人自身だ。
瀬口は無言のままゴーグルを外した。
水の膜の奥、その眼差しが真っ直ぐに直人を射抜く。
憧れ続けた存在。
雲の上にいるとしか思えない存在。
今回の大会で一緒の部門に参加できるだけで光栄だったのが、予選を勝ち抜き、並んだレーンで勝負することになった時の驚きと戸惑い。
レース前は、話しかけることすらできなかった。
それが……
コースロープに腕を乗せ、絶対王者が直人に言う。
「……完敗だ」
声は、穏やかだった。
威圧も、悔しさもない。
ただ静かに、事実として。
「見せてもらったよ。お前の泳ぎ、すごかった」
震える指で、直人は差し出された手を握った。
ゾクッと震えが直人の全身を走る。
その手の感触――熱を持ち、だがどこか、水の中にいたままのように滑らかだった。
思わず、握ったまま動けなくなる。
その瞬間、何かが背中を撫でた気がした。
空調の風ではない。観客の視線でもない。
もっと深く、自分の皮膚の内側まで染み込むような、ぬめるような感触。
――ここにいるよ。
ヒメの声ではない。
ただの感覚。
それでも、直人にはわかる。
ヒメは、感じてくれている。
ずっと、そばにいる。
彼がこの日、勝つことを、誰よりも信じてくれている。
(ありがとう)
直人は、心の中で、そっと呟く。
****
控室の鏡の前で、直人は身体を拭こうとしている。
ぼうっとした感覚。
表彰式が始まるまでのひと時。
プールサイドから控室に来るまでの喧騒。
訳がわからないままに放り込まれた感覚。
直人の勝利を祝う人達、そして、感想を求めて来る報道陣。
何をどう答えたかよくわからぬままに、ここに着いた。
肩に羽織ったバスタオルが肩にずるりと滑り落ちる。
濡れた肌に、冷房の風がぴたりと張りつく。
呼吸は少しずつ整ってきた。
けれど、心はまだ、どこか遠くを漂っていた。
(勝った……んだよな)
声に出せば、すぐに消えてしまいそうだった。
これまでテレビ越しにしか見たことがなかった、あの瀬口に。
自分が勝ったのだ。
……なのに、胸の奥にあるのは、歓喜でも高揚でもなかった。
(……あの感覚)
握手のときに感じた、あの手の温度。
水の中で背を撫でていた気配と、まるで同じだった。
ヒメ――
そう、呼び続けてきたもの。
その存在について、誰にも話さなかった。
子供の頃、市民プールの水の中に“あたたかい何か”を感じた日から。
それは優しくて、怖くて、でも、どうしようもなく心地よかった。
“ヒメ”はいつもそばにいた。
疲れて足が攣りそうになったときも、レースで沈んだ夜も、誰よりも早く褒めてくれた気がした。
そう思うたび、泳ぐことが――水にいることが――“帰る場所”みたいに思えた。
「……待っててくれよ」
小さく呟く。
答えはない。けれど、湿った空気の中で、鏡の奥の自分の瞳だけが静かに揺れていた。
****
表彰式。
フラッシュが幾重にも降り注ぎ、拍手と歓声が舞う。
直人はメダルの重みを首に感じながら、ひときわ目立つ観客席の一角に目をやった。
百合香がいた。
彼女は笑っていた。だが、その笑顔の奥に、どこか“仮面”のような静けさがあった。
直人は手を振ろうとして、やめた。
彼女は、舞台女優の卵、いや、もう卵じゃない、演じる人間だ。
舞台の上でも、日常でも、自分の感情を“観客に見せる表情”に変えることができる。
(今の百合香は……観客なんだろうか)
その思考に、自分自身が少しだけ怖くなった。
水の中にいるほうが、誰よりも本音に近い気がする。
陸にいると、自分が誰かすらわからなくなる。
(ヒメ……)
水に沈みたい衝動が、ゆっくりと湧き上がる。
表彰台を降りる時、思わず呟いていた。
表彰式に続く記者会見、大会役員•選手達との懇談。
素晴らしい泳ぎだったとか、オリンピックがどうのとか、世界大会がどうのとか、自分のことを話題にされているが全く脳みそに入ってこない。
ぎこちない笑顔を浮かべるのがやっとだった。
決勝から後のことは、ほとんど記憶に残っていない。
後にテレビや新聞・雑誌での報道を見ても、他人事にしか思えない。
画面や紙面の自分が他人のようだ。
自分の顔が載ったスポーツ紙に目を落とす。
“17歳の新星•朝日直人、、、『今すぐ帰って泳ぎたい!』”
そんな見出しの記事。
記者会見での返答。
ー今、何が一番したいですか?
ーすぐに地元に帰って、慣れたプールで思い切り泳ぎたいです。
そのやり取りが切り取られ、独り歩きしている。
しかし、それは本心からの言葉だった。
記者達は、練習好きのピュアなスポーツ少年の言葉と受け取ったようだ。
高校2年生の無名のスイマー直人への好印象と期待が滲み出る記事が溢れた。
本当は、記者会見などさっさと終え、夜行バスに乗り込み、いち早く“ヒメ”の待つ街に戻り、優勝の喜びと感謝を伝えるため#あの__・__#プールに飛び込みたいだけなのだった。
熱に浮かされたような式が終わりに、ジャージ姿の直人は、関係者のみ立ち入りが許される扉の外で待つ百合香の元に駆けつけ用とした。
彼女を見つけ駆け寄ろうとする前に、彼の前に人垣が出来た。
新王者の登場に付近の観客が湧く。
状況を察したコーチがそっと人垣の裏から百合香に近付き、関係者以外立ち入り禁止のスペースに彼女を誘う。
少し間をあけて、彼も戻った。
胸の鼓動は、泳いでいた時とは違う理由で速くなる。
「百合香!」
彼女はゆっくりと顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「……おめでとう、直人」
その声には確かに祝福があった。だが、その響きには距離もあった。
「ありがとな。来てくれて嬉しかった」
「すごかったよ、泳ぎ。……ほんと、誰にも追いつけない感じだった」
その言葉に、直人はふと胸の奥が痛んだ。
「……俺さ、途中で思ったんだ。自分じゃないみたいだったって」
「え?」
百合香が首をかしげる。
「……いや、変なこと言ったな」
ごまかすように笑ってみせると、彼女の目が鋭く光った。
「ねえ、直人」
「ん?」
「ヒメって、誰?」
その一言に、直人の全身が凍りついた。
「……え?」
「表彰式のあと。多分、君、そう呟いてた。私には、唇がそう見えた」
「……気のせいじゃないかな」
「そう?」
それ以上、百合香は何も言わなかった。
けれど、その瞳の奥にあったのは、“役者の目”ではなかった。
少女の、恋人の、そして……何かに触れかけた者の、静かな恐怖だった。
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