第三章 古書と沈黙の幾何学

深夜の古本屋は、時間の流れが歪んでいるような錯覚を杏里に与える。壁一面を埋め尽くす書架、床に積み上げられた本の塔、そしてそれらが放つ古紙とインクの独特な匂い。蛍光灯の白い光が、その静寂を一層際立たせている。杏里はカウンターの奥、背の高いスツールに腰掛け、読みかけの文庫本から顔を上げた。客は誰もいない。時折、表通りを走り去る車の音が遠く聞こえるだけだ。


カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。杏里が視線を上げると、一人の女性がゆっくりと店内に入ってきた。年の頃は杏里と同じくらいか、少し上だろうか。色素の薄い髪を無造ził束ね、大きな黒縁の眼鏡をかけている。服装は飾り気がなく、大きなトートバッグを肩から下げていた。その女性は、ここ数週間、決まった曜日の決まった時間に現れるようになっていた。和田恵子、と名乗ったことは一度もないが、杏里は心の中でそう呼んでいた。彼女の肖像画として、グ▒ース・ハ▒ードの姿がぼんやりと浮かんだ 。


恵子は店内を見回すでもなく、一直線に奥の人文科学の棚へ向かった。そして、まるでそこに何があるか最初から知っていたかのように、特定の数冊を抜き取ると、床に直接座り込んで黙々とページをめくり始めた。その姿は、周囲の世界から完全に隔絶されているように見えた。杏里は、そんな恵子の姿を、カウンターの影からこっそりと観察するのが常だった。


彼女が読む本は、いつも難解な哲学書や、分厚い歴史の研究書ばかりだった。杏里には到底理解できないような文字列が並んでいるのだろう。何を思ってそんな本を読むのか、杏里には想像もつかなかった。ただ、その一心不乱な姿には、ある種の潔さのようなものが感じられた。


今日も恵子は、数冊の本を吟味した後、その中の一冊を手に取り、レジカウンターへ静かに差し出した。杏里は黙って本を受け取り、バーコードを読み取る。


「……カバーは、いりません」


か細い、けれど芯のある声だった。杏里は頷き、会計を済ませる。恵子は代金を支払うと、釣り銭と本をトートバッグにしまい、軽く会釈だけして店を出て行った。ドアベルが再びカラン、と鳴る。


一連のやり取りは、ほんの数分。言葉を交わしたのは、必要最低限。それでも、杏里の心には、恵子が残していった沈黙の余韻が漂っていた。あの人は、何を考えているのだろう。あの難解な本の向こうに、何を見ているのだろう。


璃子の賑やかなおしゃべりとは対極にある、恵子の寡黙さ。璃子との時間は、外へ向かって開かれていくような感覚があるのに対し、恵子との(一方的な)接触は、内へ内へと沈み込んでいくような感覚を杏里にもたらす。どちらが良いというわけではない。ただ、違う種類の時間が、この世界には流れているのだということを、杏里は改めて感じていた。


ふと、杏里は恵子が立ち読みしていた棚へ足を運んだ。彼女が手に取っていた本が、何冊か元の場所に戻されずに置かれている。そのうちの一冊を手に取ってみた。表紙には、理解不能な図形と、意味の取れないカタカナの羅列。数ページめくってみたが、やはり杏里にはチンプンカンプンだった。


(こういう世界もあるのか)


それは、杏里が普段目にしている日常とはかけ離れた、別の法則で動いている世界のように思えた。そして、恵子はその世界の住人なのだろう。杏里はそっと本を棚に戻した。自分には縁のない世界だ、と改めて思う。


閉店時間が近づき、杏里は店内の片付けを始めた。窓の外は、もう白み始めている。都市の眠りが、ゆっくりと覚醒へと向かう時間。璃子なら、そろそろ起き出して、何か新しい一日を始めようとしている頃かもしれない。


杏里は、屋上で璃子と交わした他愛のない会話を思い出していた。璃子の屈託のなさ、その裏に時折見える翳り。それら全てが、杏里にとっては手の届く範囲にある、理解可能なものだった。けれど、恵子の存在は、まるで遠い星のように、杏里の手の届かない場所で静かに光っているように感じられた。


(別に、分かり合う必要なんてないのかもしれない)


杏里はぼんやりと思った。他人を完全に理解することなど、元々不可能なのだ。ただ、そこに「いる」という事実。それだけで十分なのかもしれない。璃子との関係も、恵子との希薄な接触も、形は違えど、杏里の世界を構成する無数の点の一つなのだろう。


片付けを終え、杏里は店のシャッターを半分下ろした。外に出ると、早朝のひんやりとした空気が肌を刺す。空にはまだ、明け残りの月が淡く浮かんでいた。


(今日は、璃子に何を話そうか)


特に話すような出来事があったわけではない。けれど、恵子のことを話してみるのもいいかもしれない、と杏里は思った。璃子がどんな反応をするか、少しだけ楽しみだった。あるいは、話さずに、自分の中だけに留めておくのもいい。


アスファルトを蹴って歩き出す。いつもの道、いつもの風景。けれど、杏里の目には、ほんの少しだけ、昨日とは違う色合いで世界が映っているような気がした。それは、古本屋の片隅で出会った、静かな他者の存在がもたらした、微細な変化なのかもしれない。

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