第6章: 君を追いかけて、異なる空の下で。
こはるは魔法学院の研究棟、地下の転移術理研究室にいた。
数百年前に封印されたとされる“失われた転移術”の記録をもとに、再現の試みが進められている。
今の彼は、その研究チームの副責任者として動いていた。
学生という立場を越え、魔術士として正式に編成された特別部隊にも配属されている。
あの日から、彼は変わった。
「こはる、もう休め。連日徹夜だろ」
ラシェルが肩を叩く。
「……平気。あいつが生きてるなら、急がないと」
「……そう」
ラシェルはそれ以上何も言わなかった。
かつて“喧嘩ばかりしてた副官と長官”は、今や“戻ってこない人を追う同士”に変わっていた。
転移術の再現には、特別な“鍵”が必要だった。
古の魔力に反応する水晶核、そして“魂の共鳴情報”。
こはるは、自らの魔力の一部を“記憶触媒”として解析に使用することを提案した。
「君の魔力はディランとの共鳴に強く反応していた。それは記録にもある」
「……そうかもしれない。僕自身も、それが一番の手がかりになるってわかってる」
覚悟は決まっていた。
何度でも言える。
――僕が迎えに行く。
一方その頃、現実世界・日本。
ディランは大学構内の研究棟、かつて故・東堂教授が使っていた研究室の鍵をこっそり開けた。
中は埃まみれだったが、棚の奥に“それらしき装置”があった。
半壊した円形台座。無数の魔法陣のような回路図。
中央には、黒い石のような“制御核”がはめ込まれていた。
「……こんなもん、見つけたところでどうすんだってな」
自嘲気味に呟きながらも、ディランはその制御核に手を触れる。
その瞬間――
ビリ、と脳裏に焼きつくような感覚が走った。
こはるの声が、微かに響いたような気がした。
たぶん気のせい。でも。
「……待ってろよ、こはる。絶対、俺がまたムカつかせに行くから」
薄暗い研究室。
こはるは転移装置の前で、制御核に指をそっと触れた。
すると――
意識が引き込まれるような、奇妙な浮遊感が襲った。
視界がぼやけ、現実が遠のいていく。
それは夢とも違う、幻とも違う。
――“誰か”の視点で見る、“何か”だった。
目の前には、見慣れた大学のキャンパスがある。
人混み。騒がしい講義棟の廊下。夕暮れの図書館。
でもそのすべてが、どこか歪んでいた。
まるで“誰かの記憶”に入り込んだように。
そしてこはるは見た。
――自分自身を。
*
「……ったく、また睨んでやがる。こっちは別に、お前の顔が好きで見てんじゃねぇっつの」
声が聞こえた。聞き慣れた、でもどこか少し違う声。
低くて、独り言のようで、でも明確に“自分に向けられていた言葉”。
それは、ディランの“内心”だった。
場面が切り替わる。
いつかの昼休み、食堂の窓辺。
ディランが椅子を斜めに倒し、スマホをいじりながら、時折ちらりと自分――こはるを見ていた。
「なんであんなに睨んでくんだよ。……可愛いのに。いや、可愛いとか思うな。無理無理無理。ああクソ、めんどくせぇ」
聞いたことのないディランの声色に、こはるの胸が苦しくなった。
(こんな風に……見てたの?)
知らなかった。
あの冷たい目の奥で、あんなに葛藤していたなんて。
そんな風に、自分を“気にしていた”なんて。
もうひとつ、場面が変わった。
雨の中。
講義棟の出入口で、傘を差し出すディラン。
その目は、誰にも見せたことのないような、柔らかいものだった。
「……風邪ひくぞ。……別にお前が心配とかじゃねぇけど」
こはるは、思わず息を呑んだ。
これまでのディランのすべてが、少しずつ解けていく。
あのぶっきらぼうな言葉の奥にあったもの。
軽く流すような態度の裏に、確かにあったもの。
(知らなかった……全部、知らなかった)
その瞬間――
視界が急に反転し、現実の感覚が戻ってきた。
制御核から手を離すと、こはるは深く息を吐いていた。
ラシェルが、異変に気づいて声をかけてくる。
「こはる、どうしたの。顔が真っ青よ」
「……ちょっと、記憶が……見えた。あいつの……記憶」
「ディランの?」
こくりと頷く。
「……あいつ、本当はずっと、僕のことを……」
そこで言葉が途切れた。
こはるの瞳は潤み、けれど笑っていた。
強がりでも、皮肉でもなく。
ただ、ようやく“まっすぐ”な気持ちに向き合えたような、そんな顔だった。
夜、静まり返ったディランの部屋。
彼はベッドに横たわりながらも、ずっと眠れていなかった。
窓の外では、雨が降っていた。
こはるがいない夜は、どこか決まって雨が降る。
そんな気がしていた。
「……やっぱ、おかしいよな、俺」
天井を見上げながら、ディランは自嘲気味に笑った。
女しか興味ないはずだった。
美人じゃなきゃ無理だと、そう思っていた。
それなのに。
あいつがいないと、無性にイラつく。
他の誰を見ても、何をしても、空っぽな感じが消えない。
「なんで、こはる、なんだよ……」
そのまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中。
霧がかかる校舎の中庭。
そこで、ディランは“彼”を見た。
中性的なシルエット。
細い首。
短く整えられた黒髪。
ツンとした口元。
なのに、どこか寂しそうな目。
「……雨宮」
思わず、名前を呼んだ。
その声に、こはるが振り返る。
だけど、どこか遠くを見るような、虚ろな目だった。
「……ディラン。どこに、いるの」
「ここにいるだろ。……見えてんだろ」
言っても、届かない。
こはるは、視線をディランに向けることなく、また前を向いた。
「誰にも、見つけてもらえないと思ってた」
「は?」
「……でも、あんたなら、来てくれる気がする。不思議だね」
微笑むこはるの顔が、儚く消えそうで――
「待ってろよ、絶対迎えに行くから!」
ディランがそう叫んだ瞬間、視界が弾けた。
目を覚ましたディランは、息を荒げて起き上がった。
汗でシャツが貼りついていた。
雨は止んでいた。
(……こはる)
あれは、ただの夢じゃなかった。
目を閉じても、あの声が耳に残っている。
魂の共鳴――。
信じるにはバカバカしい。
でも、今のディランには、それしかなかった。
「いいよ……わかった。俺が、行ってやる」
その言葉に、誰も答える者はいなかった。
けれど、ディランの胸には確かに灯っていた。
もう一度会いたいという、ただひとつの願いが。
夜明け前、こはるは静かな研究室の片隅で目を覚ました。
頬に冷たい本のページが貼りついていた。
徹夜で資料を読んでいるうちに、いつのまにか眠ってしまったらしい。
ぼんやりとした頭を抱え、背中を伸ばしたとき――
ふと、耳に残る声があった。
『待ってろよ、絶対迎えに行くから!』
(……え?)
その声は、はっきりと脳内に響いていた。
怒鳴るように、真っ直ぐで、焦燥を帯びていて。
忘れもしない、ディランの声だった。
だが、ここは異世界。
あいつはもう、いない。
なのに、どうして。
(夢……じゃない。あれは)
体の奥で、なにかが共鳴していた。
魂の揺らぎ。
共鳴の余波。
まるで、“向こう側”の彼の感情が、そのまま流れ込んできたような。
「……バカ」
こはるは、ぽつりと呟いた。
胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛かった。
「……今さら、そんな声、聞かせるなよ……」
そのくせ、あの言葉が、何度も何度も脳内をリフレインする。
迎えに行く。
待ってろ。
あんなにぶっきらぼうで、理屈っぽくて、女好きで――
(なのに、どうして……)
あんなに、ずるいくらい優しいんだよ。
その日の昼、こはるは再び研究室に立っていた。
制御核の安定化に向けての調整が始まっていたが、進展は芳しくなかった。
「こはる、また眠れてないだろう?」
ラシェルが、優しく水を差し出す。
「平気。……むしろ、もうじっとしていられない」
「共鳴反応の余波を受けたのね」
こくりと頷いた。
ラシェルは一歩近づいて、静かに問いかける。
「彼の声を、聞いたの?」
「うん。……“待ってろ”って。まるで、本当に隣で叫ばれたみたいに」
「それは、きっと彼の魂があなたに向かって叫んでいたのよ」
「……バカだよね。いつもあんな顔してるくせに、本音だけは直接じゃないと届かないなんて」
こはるの目元に、微かに涙がにじんだ。
でも、それを指で拭いながら、笑った。
「――でも、それでいい。僕は待たない。こっちから行く。絶対に」
こはるは、再び魔力制御陣の中央に立った。
記録装置に、もう一度自分の魔力を流し込む。
目を閉じると、あの声がよみがえる。
『迎えに行く』
その言葉に応えるように、こはるは囁いた。
「……お前のこと、誰にも渡さない」
想いが、確かに交差した瞬間だった。
現実世界。工学部・地下実験棟。
ディランは、分解した制御核を前に、工具を手にしていた。
脳内には、何度も反芻した回路図と、彼女の声。
こはるの――笑った顔、怒った顔、睨んできた顔。
その全部が、まるで記憶の奥から湧き出すようだった。
「……お前の声が、また聞こえた気がしてな」
そう独り言のように呟いて、溶接機のスイッチを入れる。
火花が散るたびに、脳裏にはこはるの叫びが焼きついたまま離れなかった。
『迎えに来て』
そんな声が、本当にどこかで聞こえた気がした。
「バカが。お前が待ってるって言ったから、行くんだろうが」
深夜、実験装置の一部が青白く点灯する。
小さな成功。
けれど、それは確かに“可能性”の光だった。
「待ってろ。――もうすぐ、行くから」
一方、異世界。
こはるは城門前の見送り台に立っていた。
彼の出発は、“南方ルナレアの転移遺跡”の調査任務だ。
旅の期間は未定。
けれど彼には、もう迷いはなかった。
ラシェルが最後に声をかける。
「本当に行くのね」
「うん。……行かないと、前に進めないから」
ラシェルは静かに笑った。
「君は昔、夢見てたんだよね。白馬の王子様が、迎えに来てくれるって」
「……うん。でも、今は違う」
こはるはまっすぐ前を見据える。
「僕が、迎えに行くんだ」
その背に、魔法具と記録装置を背負い、ひとり門をくぐる。
広がる平原。風の音。
どこまでも遠く続く道。
そのどこかに、きっと“あいつに繋がる何か”があると信じて。
旅の始まりは、静かで、そして確かだった。
異なる世界で。
異なる空の下で。
ふたりは、同じ言葉を口にしていた。
「待ってろよ」
「会いに行くよ」
離れていても、繋がっている。
それはきっと、まだ“恋”とは言えない何か。
でも、それでもいいと思えるくらいに、強くて確かな想いだった。
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