第五話:かけらと形見
天音家のリビング。夕飯を終えて、ソファでごろりと横になっていた空に、妹のあかりが手提げ袋を片手に近づいてきた。
「お兄ちゃん。牛乳が切れてるの。ちょっと買いに行ってきてくれない?」
空は顔をしかめたまま、だるそうに片腕を上げた。
「え?今から?自分で行ったらいいじゃん」
「ねえ、お兄ちゃん?こんな可愛い子が、夜にひとりで歩いてたら危ないでしょ〜。ね?お願い!」
あかりは胸を張りながらそう言って、にっこり笑う。
「行ってきてくれたら、明日の朝はあかり特製トーストつけてあげる!」
「……あーもう、わかったよ。可愛い妹の頼みだし断れないな…」
空はぶつぶつ言いながら、あかりから手提げ袋を受け取り、財布を掴んで、のそのそと立ち上がった。
「ありがとー!牛乳ね!あと、できたらプリンもー!」
「……聞こえなーい!」
軽く手を振って、空は玄関の扉を開けた。
外に出ると夜の空気は思ったよりも少し涼しくなっていたけれど、雨の名残を感じさせる湿気がじわりと空気に残っていた。
(この時間、商店街のスーパーはもう閉まってるだろうし……行くならコンビニしかないか)
空は向かう先を定めて、夜の道を歩き始めた。
(この町には、コンビニが数軒しかない。家から一番近いのは、ちょっと坂を下った先のやつだけ)
舗装が少しガタついた歩道をゆっくりと進みながら、空はぽつりと独り言のようにつぶやいた。
(特にやることもないし……気分転換ってことで、のんびり歩くか)
ポケットに突っ込んだ手が、ずっと入れたままになっている“かけら”を無意識に探す。
指先に触れたとき、微かにぬくもりがある気がした。
あの日、神社で拾った光のかけら。
このかけらが何なのか、空にはわからなかった。
けれど——不思議と、それから手を離すこともできなかった。
そんなことを考えているうちに、やがて通りの先のコンビニの灯りが見えてきた。
夜の光に照らされる白い看板。
自動ドアが開き、機械的なメロディと共に店員の声が響く。
「いらっしゃいませー」
少し眠たそうな声の、真面目そうな男性店員。
空はあかりに頼まれていた牛乳を探しながら、店内をゆっくり歩いた。
「どれを買おうか……結構、種類あるな……」
牛乳だけで何種類も並んでいて、見慣れたパッケージのものもいくつかあった。
(この田舎はスーパーやコンビニが少ない癖に、品揃えがいいよな…)
悩んだ末、なるべく“濃そう”なやつを選んで手に取る。
そのままレジへ向かおうとしたとき、ふと目に入ったスイーツ棚の一角に、
「季節限定・とろけるカラメルプリン」
と書かれた札が立っていた。
カラメルソースがつややかに光る、小さなプリンが綺麗に並んでいる。
(あかり、限定とか好きそうだしな……)
「……ついでだし、買っていってやるか」
そう思いながら、空はそれを二つ、手に取った。
レジに並ぶと、さっきの店員が微笑んで声をかけた。
「袋入りますかー?」
「あ、大丈夫です」
「はい、会計は450円です」
支払いを済ませて、商品を手提げ袋に入れると、空は小さく会釈して店を出た。
「ありがとうございましたー」
ドアが閉まり、外に出るとまた夜の静けさが戻ってくる。
空はそのまま坂を上がる方向には進まず、ふと気まぐれに違う道を選んだ。
(……なんとなく、このまま帰るのももったいない気がする)
特に理由はない。
細い坂道を下っていくと、街灯が少なくなり、足元が少し暗くなっていく。
その先、通りを抜けたところに、鳥居が見えた。
数日前、白猫・しろを追って訪れた神社だった。
あのとき、“かけら”を拾った場所。
なぜか、またここに足を運びたくなった。理由はわからない。けれど、無意識にポケットを探った指先が“それ”を確認する。
静まり返った神社。
鳥居の外では時折、車の音が遠くにかすかに響いている。
けれど、ここには風が木々を撫でる音と、夜の匂いしかなかった。
石段を上り、境内に足を踏み入れると——その奥に、人影があった。
社の前に、ひとり、佇んでいるのは——
「……天音さん?」
空の声に、少女がゆっくりと振り返った。
朝陽だった。
夜の風に、髪が揺れる。
神社の静けさの中、その姿はどこか儚げで、いつもより少し遠くに感じた。
「……天音くんも、ここに来るんだ」
少し驚いたような、でもどこか安心したような声音だった。
昼間の教室では見せなかった、やわらかい声。
空は少しだけ息を抜いた。
「いや……たまたま。買い物の帰りに、なんとなく寄っただけ」
「ふーん」
朝陽は空に背を向け、再び社の方を向く。
その背中に空はゆっくりと歩み寄り、数歩離れた場所に立った。
そして、問いかける。
「……何か、探してるの?」
その問いに、朝陽の肩がわずかに動いた。
しばらくの沈黙のあと、ぽつりと返ってきた言葉。
「……ペンダント。落としちゃったの」
空の心臓がひとつ跳ねた。
「昨日の夜には、確かにあったんだ。鞄のポケットに入れてて……でも今日、学校から帰ってきて、気づいたらもうなかったの」
空は、ポケットの中にある“かけら”を無意識に握りしめていた。
「それ、大事なものだった?」
朝陽はうなずく。
そして、ふと自分の胸元に視線を落としたまま、言った。
「……母の形見。透明なガラス玉みたいな、小さいやつ。チェーンがついてて、ネックレスみたいにしてた。子どもの頃にどこかの国のお土産でもらったらしいんだけど……私には、それを“守って”って言われた気がしてた」
朝陽の声が少しだけ揺れていた。
その手が無意識に、そこにあるはずのペンダントの場所を探すように握られている。
「そっか……」
(……ガラス玉、みたいなもの……)
空の脳裏に、神社の境内で拾った“あの光”が浮かぶ。
御神木の根元に落ちていた、小さな透明なかけら。
ポケットにあるそれを、空はそっと握りしめる。
(もしかして、これが……?)
でも、言えなかった。
彼女の言葉から、どれだけそのペンダントが大切だったかが伝わってきたから。
安易に「これかも」なんて言えなかった。
もし違ったら。もし本当にそれだったら——どうすればいいのか、わからなかった。
「……変な話だけど」
朝陽がぽつりとつぶやく。
「なくしてから、胸の奥がずっと苦しい。ほんとはただのペンダントなのに、何かが欠けたみたいな感じがして……」
夜風が吹いて、彼女の髪が静かに揺れた。
空はその横顔を見つめることしかできなかった。
「……でも、きっとこのあたりにある“気がして”……だから、探してたの。どうしても、見つけなきゃいけない気がするんだ」
それは“ただの形見”にしては、強すぎる執着に見えた。
空には、彼女の言葉に宿る重みが妙に引っかかった。
ポケットの中にある“かけら”も——たぶん、ただの石ではない。
けれど、それが“何か”だとまでは、まだ言葉にならなかった。
社の前で、朝陽は視線を外さず、ぽつりと続けた。
「……ここ、たぶん、前にも来たことがあるんだと思う」
空は少し首をかしげた。
「……たぶん?」
「うん、はっきりした記憶じゃないんだけど。夢で見た景色みたいな感じ。思い出せそうで、思い出せない」
「へえ……」
空も、あの日の“幻”のことを思い出す。
けれど、それを言うこともできなかった。
しばらく沈黙が流れる。
「……なんか、ここに来ると落ち着くんだ。不思議と。初めて来たはずなのに」
「変じゃないよ」
空は、それだけを返した。
言いたいことはたくさんあった。
けれど、どれも言葉にならなかった。
ポケットの中の“かけら”が、指の中でそっと光った気がする。
そのぬくもりは、切なくて、でも確かに温かかった。
ふと、空は社の周囲に視線を巡らせる。
暗がりの中、落ち葉の陰や石畳の隙間に目をこらしても、見つかりそうな気配はない。
「……俺も、探すよ」
朝陽が顔を上げた。
その目は驚いているようで、それでもどこか、ほっとしたような色も浮かんでいた。
「……ありがとう。でも——」
「いいんだ。今、ここで見つからなくても、……また明るいときに。俺も、手伝うから」
それは、言えなかったことへの小さな償いのようで。
それでもきっと、今の空にできる精一杯の言葉だった。
朝陽は空の言葉にすぐ返さず、少しだけ目を伏せた。
まるで、その響きを丁寧に受け止めるように——時間をかけてから、そっと頷いた。
静かな夜の神社。
二人で境内の隅々まで歩きながら、あまり会話はなかった。
でも、それが不思議と苦ではなかった。空気がすでに言葉の代わりになっていた。
それでも、結局ペンダントは見つからなかった。
「……ごめん。俺、何の役にも立たなかった」
空がそう言うと、朝陽は首を横に振った。
「ううん。……一人じゃ、たぶん途中で帰ってた。ありがとう」
その声が、ほんの少しだけ、かすれて聞こえた。
神社を出たあとも、二人は同じ道を歩いた。
夜道の中、街灯の光が交互に影を生んで、二人の影がときおり重なったり離れたりする。
やがて、朝陽が足を止めた。
「……もう、ここでいいよ。家、すぐそこだから」
静かにそう言って、朝陽は空を見上げる。
「送ってくれて、ありがとう」
空は一歩踏み出しかけて、ふと足を止めた。
手提げ袋を覗き込む。中には、コンビニで買ったプリンが2つ。
「……あ、これ。よかったら」
手を伸ばして、そのうちの一つを朝陽に差し出す。
ほんの気まぐれで買ったものが、今は何か渡せるものになった気がして、空は少しだけ安堵した。
朝陽は目を見開いて、それからゆっくりと受け取った。
「……いいの? ありがとう」
包み込むようなその声は、いつもの彼女のトーンとほんの少し違っていた。
そのまま、短く言う。
「おやすみ、また明日」
「……うん。おやすみ、また明日」
空はその背を見送り、静かに歩き出した。
家に戻ると、玄関の電気が煌々と点いていた。
「遅いっ!」
玄関を抜けると、すぐにあかりの声が飛んでくる。
「え、いや、別にそこまで遅くは……」
「心配したんだからね!お兄ちゃんがふらっと出てって戻ってこないなんて、ニュースのネタになるとこだった!」
空は苦笑しながら、手提げ袋を掲げる。
「はいはい、牛乳と、プリン。あかりのぶんもちゃんと買ってきたぞ」
そう言って、手提げ袋をあかりに渡す。
「……ふん」
口をとがらせながらも、手提げ袋を受け取ったあかりはプリンを見た瞬間、表情をぱっと明るくした。
「わっ……!あ!これ限定のやつじゃん!あかり食べたかったんだよね!さすが、お兄ちゃん、ありがとっ!」
「……単純だな、お前」
「うるさい!」
ようやく自室に戻った空は、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめたまま、ゆっくりとポケットに手を入れる。
指先に触れたのは、いつもの“かけら”。
(結局、今日も……これのこと、考えてばっかだ)
でも、手放すことはできなかった。
朝陽が言った「苦しい」って言葉が、頭から離れなかった。
(このかけら、やっぱりただの石じゃないよな……)
けれど、それが何なのか。
どうしてこんなに惹かれるのか。
空にはまだ、わからなかった。
ただひとつ。
彼女の言葉と、目に浮かんだ揺れる表情と、神社の夜の空気と——
すべてが、かけらの光と同じ温度で、胸の奥に残っていた。
(……守りたくなるような、そんなものだった)
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