閑話:夜、雨音のあとで

 窓の外では、まだ雨の名残が残っていた。

 ぽつり、ぽつりと軒先を叩く水音が、寝静まった町に溶けていく。


 朝陽はカーテンを開けたままの部屋で、ベッドにもぐり込むことなく、背を丸めて膝を抱えていた。

 風が開けた窓からゆるやかに入り、濡れたアスファルトの匂いを運んでくる。


 ぼんやりと、さっきのことを思い返していた。


 夕立。雷の音。

 逃げ込んだバス停。

 そして——掴まれた、手。


(……あの人、なんなんだろ)


 手は、温かかった。

 少しだけ強引で、でも怖さはなかった。

 むしろ、雷よりもその手のほうが、ずっと心を乱した。


(……どうして、あのとき、笑っちゃったんだろ)


 わからない。

 優しくされたことに、慣れてないだけかもしれない。

 名前の話をされたときも、少し胸が詰まった。


「空が割れそうで怖い」

 ——変なこと言う人だと思った。でも、少しだけ共感した。


 空が割れるとき、自分も消えてしまいそうになる感覚。

 昔、夢で見た風景と似ていた。

 自分が“誰かに掴まれていた”夢。


(……思い出せない)


 その夢を見たのはいつだっただろう。

 顔は、いつもぼやけていて。

 でも、手の感触だけが、妙にリアルに残っていた。


 気づけば、自分の右手を握っていた。

 あのとき、掴まれていたのと同じ手。


(……似てた)


 心の中で、そっと呟く。


 ——けれど、それが何を意味するのかは、まだわからない。


 


 雨はやがて止んだ。


 朝陽は少しだけベッドに身を倒す。

 そのまま目を閉じると、世界が遠ざかっていく。


 瞼の裏に浮かんだのは、濡れた夕空。

 藍と紫と赤が滲んだ、あのときの空。


 その隣に、空の横顔が見えた気がした。

 まっすぐで、不器用で、少しだけあったかい。


 …でも——


 ちょっとだけ……不思議な人


 心のどこかで、ぽつんとそんな言葉が浮かんで、ゆっくりと夜に沈んでいった。

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