デジタル迷宮の探偵
神在月八雲
第1話
ロンドンの薄暗いフラットに、キーボードの軽快な打鍵音が響き渡っていた。シャーロック・ホームズは、3台のモニターに囲まれ、画面に映る膨大なコードの海を泳ぐように目を動かしていた。細長い指がキーを叩くたび、画面上のデータが新たなパズルのピースを吐き出す。彼の鋭い灰色の瞳は、まるで19世紀の霧深い街路を歩くかのように、現代のデジタル世界を切り裂いていた。
「ワトソン、コーヒーを頼む。ブラックでいい」
ソファに腰掛けてタブレットでニュースを眺めていたジョン・ワトソンは、顔を上げてため息をついた。
「ホームズ、君は僕を助手兼バリスタだと思ってるのか? もう3杯目だぞ。今度は自分で淹れてくれ」
「君の手際がいいから頼んでるんだ。僕が淹れたら、味がデータベースの平均値から逸脱する。君のは常に安定してる」
ワトソンは苦笑しながら立ち上がり、キッチンへ向かった。元軍医で、今はサイバーセキュリティの基礎をホームズに叩き込まれつつある彼は、相棒の奇妙な論理に慣れつつあった。
ホームズは、世界でも稀に見るホワイトハッカーだった。政府や企業から依頼を受け、システムの脆弱性を探り、サイバー犯罪を未然に防ぐ。だが、彼の真の楽しみは「ゲーム」――つまり、闇のネットワークに潜む天才的な敵との知恵比べにあった。そして、その頂点に君臨するのがジェームズ・モリアーティだ。
その日の朝、ホームズのもとに暗号化されたメールが届いた。差出人は匿名だったが、彼には一目で分かった。モリアーティだ。メッセージは単純だった。「48時間以内に私の仕掛けた罠を解け。さもなくば、ロンドンの金融システムが崩壊する」。添付ファイルには、複雑に絡み合ったマルウェアの断片が含まれていた。ホームズの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ワトソン、コーヒーは後でいい。こちらへ来てくれ。ゲームが始まった」
ワトソンがモニターを覗き込むと、画面には見慣れないコードが流れていた。「これは何だ?」
「モリアーティの挑戦状だよ。彼らしいエレガントな仕掛けだ。ブロックチェーンに偽装したバックドアが仕込まれていて、取引所をハッキングする準備が整ってる。僕がこれを解かなければ、数千億円が消える」
「警察に連絡すべきじゃないのか?」
「警察? 彼らじゃこの暗号の最初の1行すら読めないさ。それに、これは僕と彼の勝負だ。介入は無粋だよ」
ホームズの手が再び動き始めた。コードを解析し、罠の構造を解き明かす。彼の頭脳は、ヴィクトリア朝の推理と同じく、現代のデジタル迷宮でも冴え渡る。一方、モリアーティはどこかでその様子を見守り、次の手を用意しているはずだ。ロンドンの地下鉄網のような複雑なネットワークの中で、二人の天才が静かに火花を散らし始めた。
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