第三章 §8 「陽は傾き、灯がともる」 その2
ギルド本部の重厚な扉が、静かな音を立てて閉じた。
夜の帳が街を包み始め、
オルドレイアの石畳には黄昏の残光と街灯の灯りが交じり合っていた。
昼の喧騒は沈み、代わりに抑制された熱とささやきが街路に満ちている。
レイは一人、ギルド街の大通りを南へ歩いていた。
目的地は、宿。
任務を終えた後、最低限の報告を済ませ、今夜はそこで休む予定だった。
だが——。
ふと、足を止める。微弱な魔力反応を感じ取った。
(……微細な魔力、五つ。移動中。制御された波形……市井(しせい)のものではない)
レイは眉をひそめた。感知した魔力は、ただ弱いだけでなく、異様に整っていた。
濾過(ろか)されたような清涼さ(せいりょう)と、意図的な秘匿性(ひとくせい)。
宿の方向とは違う。少し東へ折れた裏通り、
その先にあるのは——記憶にも記録にもない路地。
「……少し、回り道だな」
目的を変えたレイは、宿への道を外れ、路地のほうへと歩を向けた。
何もない空気を裂くように、ブーツの音が石畳に響く。
光が途切れた。街灯が届かない影の道。
通りを外れた先、細くねじれた裏路地には人の気配がほとんどなく、
音の粒さえもが吸い込まれるように消えていく。
やがて、壁面に異様な構造を持つ古い建物が見えた。
その地階へと続く階段の前、封じの魔力を感じた。
魔力感知を鈍らせる結界、簡易ながら術者の腕は確かだった。
「外部からの干渉を避けるための封鎖結界……不正取引の遮蔽か」
思わず、低く呟く。こうした気配は、ネオ・シエラで何度も目にしていた。
都市の裏側で行われる違法薬物や禁制技術の闇取引――
それらを摘発・鎮圧する任務に就いていた過去が、身体にこの反応を刻み込んでいた。
あの都市で見た、冷たい空気と潜む殺気。
それに似たものを、この薄暗い路地の奥に感じる。
結界の特性、魔力の濃度、周囲の視線の不自然な迂回……
それらが“場の異常”を物語っていた。
階段をゆっくりと降りていくごとに、耳に届く音が変化していく。
最初は沈黙。次にくぐもったざわめき。
そして、階下の最後の段を踏み下ろしたとき——
まるで別世界に足を踏み入れたようだった。
そこには、蒸気と煙と魔素が渦巻く異空間。
地下市場。
明らかに合法の範囲を逸脱した商品群。
魔獣の臓器、禁術の触媒、国禁指定の魔導機具、そして異国から密輸された薬品や機具。
帝国の監視網では到底並ぶことのない代物が、ここでは当たり前のように並んでいた。
売り手たちはフードを深くかぶり、声を潜めながら品物の説明をする。
客の顔もまた、半分が仮面に隠されている。
レイは一歩一歩、場の空気を読むように慎重に歩を進めた。
(……ここが、ダリウスが言っていた“秘密”か)
そんなとき、ひときわ控えめな屋台に、
細い銀のブレスレットが何本か並んでいるのが目に入った。
店主はレイの視線を察したのか、低く囁くように説明を始めた。
「これか? ただの飾りに見えるだろうが、よく見てみろ。
〈アルセ・リストレット〉という代物だ」
店主は指でブレスレットの細かな刻印をなぞりながら続ける。
「外見は美しい銀細工のブレスレットだが、中には多重術式が隠されている。
三重にもなった術式の層でな」
「まずは《視界補助〈ヴァイジング・センサー〉》。
暗所や煙幕の中でも視界を確保する基本機能。
次に《魔力痕跡追跡符〈マナ・トレース〉》が内蔵されていて、
魔力の揺らぎを微細に感知できる。
さらに《術式解析ログ〈グリフ・スキャン〉》も入っている」
「このブレスレット一つで、軍用の魔導監視装置にも匹敵する性能を持つ。
だが見た目はただの装飾品だから、身に着けていてもまず気づかれん」
店主の声は周囲のざわめきにかき消されないよう、慎重に抑えられている。
レイはそれを静かに受け取り、装置の刻印を指先でなぞった。
「旧式の品だが、応用すればまだまだ使い道はある。
特に密偵や斥候にはもってこいだろう」
レイは銀貨三枚、三百コルを差し出し、店主は無言でそれを受け取った。
装置をそっと腕に巻き付け、最後に市場全体を見渡した。
(“光の届かない場所”――確かに、ここにも存在していた)
階段を上がる頃には、外の冷気が現実の世界へと彼を引き戻す。
レイはふと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……ネオ・シエラではこういう品を押収する側だったのに、
今は自ら身に着けるとはな。世の巡り合わせとは、何とも皮肉なものだ」
階段を上がり、街の喧騒が遠ざかる頃には、夜の冷気が肌を引き締めた。
レイは手首に新たな魔導装置の重みを感じながら、足早に宿へと向かう。
街灯の灯りがぽつぽつと灯る路地を抜け、ふと立ち止まって振り返る。
闇の市場のざわめきは遠ざかったが、その影は確かに彼の背後に残っていた。
宿の扉を押し開けると、暖かな灯りとほのかな木の香りが迎え入れる。
疲れた身体を預けるように、レイはカウンターで宿泊の手続きを済ませた。
一夜の休息は明日の任務に向けて必要不可欠だった。
布団に身を沈め、外の静寂と自身の心音だけが部屋を満たす。
(明日、ここからまた動き出さなければならない)
決意を新たに、レイは瞼を閉じた。
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