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  • かいたへの応援コメント

    ムラサキハルカさん、ご参加ありがとうございます!
    他の人には解されない言語で憑りつかれたように、または悪魔祓いのように書き続けた女性の人生について、第三者的な神の視点から書いた、簡潔な語り口が印象的な作品でした。
    文学と言語は密接に関わっています。一般によく言われる論が「言語の幼年期にこそ、偉大な作家は現れる」というものです。英語におけるチョーサーやシェイクスピアなんかは分かりやすい例じゃないでしょうか。夏目漱石もまた、日本語が西洋文化を吸収して新生した時代に活躍した作家です。では、なぜ生まれたばかりの言語が偉大な文学者を生むのでしょうか? 例えば、生まれたばかりの言語は生まれた時代の要請に従って生まれた言語だから、その時代の作家に必要なものが詰まっているとか。まだ形式化・硬直化していないから、自由に書けるとか。みたいな理由が考えられるでしょうか。
    その点、直子は自由自在に言語を生み出しているように思われます。文法自体は日本語っぽいんですが、語彙が造語らしきものばかりです。また、物語の序盤においては『……ざばぁんはゴウっ打ちだされてぷわぁっと広がっていくのをびよぉぉんとしつづけ、どぅーんとしていく……』と、何となく内容を推測できる範疇にあるのですが、終盤になると彼女が書いたことを読んでも文脈を予想することすらできません。元々日本語を外れていたのが、更にどんどん日本語から遠ざかっていくのです。多分、我々が言語の先行する状況でパズルのように形容を当てはめていくのとは対称的に、直子は書くべきことが先にあって、それのための言語を臨時的に次々と作っていっているのではないでしょうか。直子はある種言語の軛から自由という強みがあったからこそ、三十年もノートを書き続けられたんじゃないかと思いました。
    加賀直子は唐突に(人生って得てしてそういうものかもしれませんが)死にます。でも三十年分のノートはそこに残る。加賀直子が書いてきた証明としての『ある』という小説は三十年分のノートが捨てられたり紛失してもなお残る。と考えれば、何だかそれは素敵なことのように思えます。当人は呼吸をするかのように義務的に書いていたようなので、既に書き終えた内容に興味があったのかなかったのかについて、我々読み手は判断できるだけの材料を持ちませんが……。残された尾上や貝原にとっては、彼女のノートが残ったのは、良いことだったかも知れません。
    素敵な作品をありがとうございました!

  • かいたへの応援コメント

    『……ざばぁんはゴウっ打ちだされてぷわぁっと広がっていくのをびよぉぉんとしつづけ、どぅーんとしていく……』
    分かりそうで分らない言葉です。『大衆文学は他人のために書かれた文学で、純文学とは自分のために書かれた話である』というのを読んだことがあります。この定義の真偽や純文学論はさておき、直子にとって「自分のために書かれた話」を突き詰めた話だったのでしょうか。
     頭の中に膨大な話が合って、それを出力せずにはいられない。ある意味で文字書きにとっての普遍的な話で、それも本当に他者に理解できない話となると問いは難しくなり、であったとしても、そうせずにはいられないという話だと解釈しました。誰のためにならなくてもいい。この創作の衝動と向き合う姿に、「祝福としての文学」としての救いを感じました。

  • かいたへの応援コメント

     「電波系小説」としてやや暗い、抽象的な顔をするこの作品ですが、「裏テーマである文学としての祝福」から率直にコメントを打たせていただきます。
     「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」とはルカ書の聖母マリアの言葉です。神とは「在りて在るもの」であり、スラブ正教会圏では「成りて成るもの」とも同義です。
     例としてこそ抽象的な神の姿を挙げましたが、おそらく「祝福」もまた同じ観念上の存在のものであり……。主人公は世界というものをありのままに描写しながら、世界そのものと同質化(ホモウーシス?)しようとしたのかなあとか思いました。
     あるがままに筆を走らせることは、それ自体は楽しいことです。だけど僕ら文筆家はそれができない。それを地で行くと間違いなくボケるし、それは人間として健全ではない、と僕らは考える。
     それを分かっているからこそ作者さんも、主人公を、アラサーという若年で「退場させた」。はず。
     難しいです。