2025年夏 自句自解
昨季の記念すべき十数句は、「俳句に歯向かう」という意思ばかりが強く、具体的にどのような句風をもって既存句への挑戦とするかの詳細が、まだ曖昧だった。
俳句を学んだことのある方には感じられると思うが、この12句はルールを破ることだけを目的とした選になっている。例えば大幅な字余りもそうだし、例示、恋愛ネタ、破調、約物の使用などもそうだ。
高校時代に俳句を教えてくれた国語教師は伝統俳句寄りで、私は悪役令嬢が転生したかのようなイエスマン系優等生だったから、ずっと虚子のような句を作ろうとして失敗してきた。ただ、振り返ってみると、高校時代に最も評価された拙句には鍵カッコが使われていたし、最高傑作と自負する句はセリフ句だった。おそらく無理に抑圧されていただけで、自分の表現意欲を最も満足する作風は、この時代から前衛に傾いていたのだろう。大損をしたように思う。
さて、振り返って秀句と感じるものだけをピックアップしてみる。
草薙素子はビール瓶なら殴れる。
悪くないと思う。俳句(俳プ)への意欲が再燃したのは、これができたときだった。
私はもともと音数に敏感で、高校生のころから破調句をたくさん作っていた。音数だけで言えば、この句の8-7-4(5)は最高かもしれない。都々逸の7775に似て、激しい感情を言い流し、さっぱりと後に残らない。
草薙素子をビール瓶以外で殴ったら殺される。オタッキーだが、ビールの清涼感が増幅していると思う。
キンキンに冷えた銀河のソーダ割り
大した句ではないが、奇想を俳句にしようという意欲は激しく伝わってくる。SFの勉強の影響か。
蕪村に「ところてん逆しまに銀河三千尺」という句がある。別にオマージュしたつもりはないのだが、拙句の方が出来が悪くて恥ずかしい。だが少なくとも、この方向性は本来、俳句として認められてもよいのだ。
良い俳句とは次の七七を書き継ぎたくなる句だ、とよく言われる。たとえば、米津玄師とか、ずとまよのACAねとか、画面の向こうのweb読者が、面白がって歌詞の続きを書いてくれるなら、それは現代俳句として成立しているのだと思う。
直木賞も受賞なしで横転、トマト
この時期の私は、二物衝撃の使い方への洞察が際立っている。
ややネットスラング的だが、翻って考えると、面白いネットミームは二物衝撃的な構造を多分に有していると思う。「笑」から「w」、「w」から「草」が派生した現代だが、「草」が存外に長寿なのはなぜだろうか。
既にネットカルチャーはJポップの歌詞を躍進させた。今度は俳句の番ではないか。
ビームサーベルで氷河の星を斬る
天才的な句である。これだけでもこの句集には価値がある。この句を認められない人間は俳句に向いていないとすら思う。あるいは俳句界の人間がこぞって私を磔にするかもしれない。
やはり俳句の神髄は写生にあると思う。エモを最短経路で共有するためには、客観的な一瞬の景色の方が強い。
重要なのは、子規や虚子の時代とは違って、現代人の情緒にはSFが宿っているという点だ。花鳥風月がなんだってんだよ、バカ野郎この野郎。キューブリックと手塚治虫、本当にありがとう――もちろん富野監督もね。
夏っぽいこと言うからね。アイラブユー!
このような句風は、素人の作る句でも、ありそうでなかったのではないか。下手な句に見えて、意外とよくできていると思うのだ。
人間の調子は季節により変化する。これはれっきとした医学的事実だ。マッチングアプリの広告で、夏にカップルの成立数が多いという言説を見かけたのだが、あれは本当なのかな?
夕焼に似ている君の虚言癖
悪い句をひとつ振り返っておく。このような言葉遊びをするのは、やはり俳句らしくないように思う。
夏の夕焼けはまん丸で、黄色い飴玉のように見える。田舎育ちなもので、地平線に見える夕焼け自体は嫌いではないが、都会に生まれて夕焼けをありがたがる人は、なんだか嘘くさいと思ってしまう。そういう句であったが、コネているうちに下手な句作になってしまっている。
「線香花火って時間の無駄すぎる……」というボツ句もあった。さすがに直情的すぎて削除したわけだが、とかくこの時期の私は、人間をボールドに描く試みばかりに固執して、俳句らしからぬ邪道にも踏み込んでいるようだ。
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