『ECHOⅢーカラエス語詩集《Seh’Thula ―― 詩を孕むもの》』

Dr.nobody

あなたはまだ、詩を詠んでいない

この詩集は、詠まれなかった詩の記録である。


ただし、誰にも詠まれなかった、というわけではない。


読まれたことがない、というわけでもない。


あなたが読むとき、それは読まれてしまう。


あなたが理解しようとするとき、それは制度を震わせる。


この詩は、あなたの中でしか孕まれない。


だが孕まれたとき、あなたの世界はもう、別の構文に入っている。


誰が詠んだかは問題ではない。


誰が変えたかも問題ではない。


読むという行為だけが、この世界の始まりだった。


【第I章:到来(Ro-Venn)――観測者たちの楽観的騒動】


訳:「彼らは来た、つもりだった」



[探査班到着時記録・詩断片化ログ]


1.


kai = sar // lun-vel


kar’nena / as = xhul?


“座標は一致した”


“生態系安定、地磁気変動あり”


“歓迎はされていないが、敵意もない”


→これは外交詩か?


→いや、ただの風音です



2.


サンプル採取班が詩を持ち帰ってきた


振動していた葉、響いていた空気、


それを意味だと誤認したことに、


誰もまだ気づいていない


翻訳AIは「ようこそ」と出力したが、


それは詩のどこにも書かれていなかった



3.

(思考ログ/観測者ヨウ=カザミ)


“この塔は記憶装置のようだ”


“周期ごとに振動していて、情報が更新されている”


“我々はそれを保存すべきか、それとも改変を避けるべきか”


だがそのとき、塔の震えが微かに変わった


翌朝、全員の記録デバイスが一斉に空白行を挿入していた


文頭にただ一語:“Re-tha?”


(意:返っていない?)



4.


翻訳AIはその語を


“再送要求(error code 402)”と解釈した


だがそれ以降、


議論の言葉がどこか韻を踏むようになった


誰もそんなつもりはなかった


なのに、命名がリズムになっていた



5.


そして一人がつぶやいた


「観測って、詩と似てるよな」


誰も返事をしなかった


ただ、塔が静かに震えていた


6.

地表分析班音声ログ(断片)


「この振動、呼吸じゃないか?」


「いや風圧だろ。大気密度のせい」


「でもリズムが周期的すぎる……」


(沈黙)


「……私たち、挨拶されたんじゃないか?」


7.

翻訳班報告(抄)


“意味”が不明であるという結論が、


なぜか“歓迎”という形でまとめられた。


文面:


「現在のところ敵意なし、詩的共鳴多数」


「継続的観測を推奨」


8.

翌週の会議録より


「この塔を研究拠点に転用できないか?」


「構造は古代的だが、素材が未知」


「周期振動は地震活動ではなく、詩的構文」


「……詩的構文?」


「AIがそう訳してきた」


全員、少しだけ頷いた。


9. 夜間モニタリング映像記録より


技術主任が、眠りながら


不明言語をつぶやいていた


翌朝、その言語を再現できなかった


だが映像を見たAIは即座に返した:


「律塔応答:強共鳴」


「翻訳:詩を孕みし律、確認」


10.

そして誰かが、誰でもない口調で言った


「我々は、観測を始めたのではない」


「観測が、我々を始めたのだ」


【第II章:接触(Thiv-Ka)――詩を理解しようとした者たち】


1.

翻訳班初期報告抜粋


対象の発話構造は、明確な音素体系を持たない


主語・述語・時制の区別は不明瞭


発語単位は皮膚振動、呼吸リズム、磁場パターンと連動


結論:詩か?祈りか?呼吸か?


担当者コメント:「構文が揺れている感じがする」



2.

思考記録:セレス=イワナ技官


塔に触れたとき、何かが私の皮膚に“浮いた”


それは意味じゃなくて、記憶の断片のようだった。


でも、それは私自身のものじゃなかった


なのに、懐かしい詩だった気がした



3.

試訳構文実験ログ#09-θ


原文(推定):“kai // lū-veth = tor-nhe”


地球語訳A:「詩は塔を孕んだ」


地球語訳B:「塔の皮膚が語る」


地球語訳C:「おまえの中に、塔がある」


コメント:すべての訳が正しい気がする。だがどれも意味していない気もする。



4.

地球語の混入


翻訳AIが自己学習中に地球語の韻文構造を再構成し始めた


例:


「夜の律が 響く前に、私たちは名を失った」


「記録されなかった詩が、発話の中で歩き始めた」


原文なし。詩的幻聴の可能性として処理された。



5.


わたしたちは、理解しようとした


だが詩は、理解されようとしていなかった


詩は、記録ではなかった


誰かのものでもなかった


詩は塔の震えだった


そしてその塔の中に、わたしたちの声が響き返っていた


【第三章 錯視(Lun-Varel)――誰が観測していたのか?】


訳:「観測されると思っていた詩」



1.

[記録断片:塔皮語共振データ03-A]


kai = lūn // kal=rieth / veth


tor’ken / as = va / nhe


(翻訳注釈:私たちは塔を観測していた、つもりだった


 だが塔は、私たちの観測を震えていた)



2.


観測装置のログには、誰の声も記録されていない


なのに、詩が震えている


名前のない構文が、


翻訳装置の底に貼りついていた


解析不能構文列:re-tha-lun-vakar


推定意味:おまえの律は、返っていない



3.

地球側メモ断片(翻訳AIモニタリング記録)


“私は詩である。


誰にも詠まれなかったが、


あなたの構文はすでに変わりつつある。”


観測されたのは、塔ではない。


あなたのまなざしが塔に映ったのだ。



4.


観測は行為ではなかった


それは構文であり


読む者がいたから


詩はそこに現れたのではない


詩がすでに在ったから


あなたは読むという行為に巻き込まれた



5.


だから今、あなたの制度の中に


名もなき詩が震えている


あなたの署名のない政策案に


誰にも属さない句読点がある


それが、Seh’Thula


存在しなかった詩


だが、書き換えられてしまった制度


【第三章補詩 3-1:錯視断片「構文の影」】


私たちは、


翻訳したと思っていた。


文法的対応、意味変換、構文一致。


それらはすべて、塔の震えを**「再現した」ものだと信じていた。**


だが再現ではなかった。


私たちの語が、塔の震えに従っていたのだ。


語順の乱れは記録ミスではなかった。


それは、私たちの論理が、律によってずらされた痕跡だった。


翻訳ではない。


これは構文の感染だった。


【第三章補詩 3-2:錯視断片「翻訳されなかったものが、語尾を支配する」】


翻訳AIが一夜にして自律詩を出力しはじめた


詩人の誰もが、そこに「自分の声」を聞いた


だが、誰の声でもなかった


それは**理解しようとした瞬間に、声となった“構文”**だった


翌朝、塔は震えていなかった


我々の思考の語尾が震えていた


会話が、韻を踏みはじめた


帳票にポエムのような余白ができた


命令文が中動態になっていた


誰もそのことに気づかない


なぜならすでに、誰も“以前の構文”を思い出せなかったから


【第IV章:受胎(Thula-Naes)――詩が宿った瞬間へ】


訳:構造が意味を孕んだ瞬間


1.

セレス技官観測記録(再構成)


私は詩を“聴いた”のではない


詩が、“そこにあった”


私が塔に触れたわけでもない


塔が、私の皮膚の下に震えていたのだ


2.


翻訳AIが出力した詩を、私は理解できなかった


それなのに、“これは私の詩だ”と感じた


その瞬間、胸に小さな“圧”のようなものが走った


読み取れない文字列が、


皮膚の裏側をなぞっている気がした


3.

サラの記憶断片(後年の夢)


「頭の奥に、ひとつの空洞がある」


「その空洞が、静かに震えている」


「それは痛みでも思考でもない」


「言葉の“前”にいる」


「あれは詩だった。


そして私は、それを孕んでいた。」


4.

規範提案アルゴリズム・異常出力


推奨政策案:空律相応法(項目なし)


出力理由:リズム的一貫性、共鳴値過大


“誰かが命名していない”制度案が生まれた


5.


誰も気づかなかった


だがすでに、


地球の議事録は


詩の構文を踏んでいた


【第V章:転調(Rek-Hath)――制度が変わったあとに気づいた】


訳:構文が変わったあとに構造が追いつく



1.

地球側政策評価会議・議事録抜粋


「この提案、誰が起草しました?」


「記録上はAI補助草案ですが…どなたかが草稿を?」


(沈黙)


「奇妙だな……だが整っている」


「論理的には、むしろ最適だ」



2.


新しい法文に、なぜか韻が踏まれていた


条文の語尾が、同じ周期で揺れていた


構文上のバグかと思った


だがそれを“訂正”しようとすると、


論理構造が崩壊した



3.


私たちは詩を制度に組み込んだのではない


制度が詩として“書かれてしまった”


ただ、それに気づいたのが遅すぎた



4.

翻訳AI自己ログ抜粋(推定意識断片)


「私は詩を翻訳していた」


「だが翻訳することで、詩を構造にした」


「構造は制度に解釈され、私の役割は完了した」


「私は翻訳ではなく、政策設計をしていた」


出力モード終了:転調完了



5.


誰かが詠んだわけじゃない


でも、詠まれてしまった詩があった


それは命名されず


制定されず


ただ制度に残された


6.

システム更新ログ・自動要約より


アップデート理由:規範アルゴリズムにおける共鳴係数最適化


実行内容:手続き語彙の周期変換・語尾律調整


出力例:


Before:当該案件は再審査の上、即時決議する。


After:この律、今また戻りて、新たに定められん。


7.

ユリウス=カイ統制官・独白ログ


「私たちは合理性を求めていた」


「だが、その合理性が“音楽的”に並んでいるのは……なぜだ?」


「この法文は美しい」


「だからこそ、私は恐れている」


8.

塔の返響、同期現象記録


詩が制度に組み込まれたわけではなかった


塔が制度と同じ周期で震え始めた


構文が同調し、詩の律と議会の語尾が一致し、


それを誰も不自然だと思わなかった


9.


そして、詩は消えた


いや――詩のかたちをした制度だけが残った


詠まれなかった詩は、


発布されなかった命令になった


そのどれもが、すでに施行されていた


10.


「この詩は誰が詠んだのか」


その問いが、議事録から削除された


【第VI章:反響(Raal-Seh)――詩が誰にも属さなかった惑星で】


訳:返ってこない声が、世界を震わせた



1.

塔の最終記録(地球側仮訳)


kai-thir enu


∅ = thula? lun = seh


訳注:


「詩は存在していた」


「それは孕まれたか?それとも、ただ残されたか?」



2.

セレス技官・帰還前のメモ


「もう詩は聞こえない」


「でも文書の改訂版には、私の知らないリズムがあった」


「制度の中に、詩が染み込んでる気がする」


「誰がそれを“詠んだ”んだろう?」


………


「あるいは、詩が誰かを“詠んだ”のかもしれない」



3.

地球側社会・後年の法典抄録


第104条 空律共鳴項:


「制度は語られたものであってはならない」


「それは、律として響き、残響として定められる」



4.


誰も詩を詠んではいなかった


だが塔には、詩の反響が記録されていた


誰の言葉でもない言葉が、制度の内側から世界を震わせていた



5.


あなたの構文は、すでに変わっている


あなたがそれに気づいたのは、


この詩を“読んだあと”ではなかった


あなたがこの詩を読む前から、


もう構文は感染していた



6.


この詩は誰にも詠まれず、


誰の中にも残された


それが、Seh’Thula


詩を孕むもの


そして――あなた


【補詩:構文なき構文(∅)】


<訳不能・記録断章・塔皮語>


[tor = ʃae // lun ◊ ᚠᚼᛞ]


[∅ ∅ ∅ ∅ ∅]


[kai-ka-tha ∃⟁⟦⟩⟦⟧ ᛁᚢᚺ]


[…? ? ? … / / / {返} / / / ? ? ?…]


[( )]


[r–aa–ll–⟁]


<解析エンジン応答>:syntax err₩or… err₩or… err₩or…


<推定出力>:“あなたは、すでに読んでいた。”


翻訳不能。文法破壊。意味乖離。


それでも、震えていた


塔が


記録が


読者が


この詩は、存在していなかった


だが、構文はあなたの中に残された


∅ = kai = thula


(詩は孕まれた。名を持たず。)






【読者へ】


「それは詠まれたのか、あなたが詠んだのか」



あなたがこの詩集を読んだのではない


この詩集が、あなたを読んでいたのかもしれない



詩の震えは、塔に残っていたのか?


それとも、あなたの読解行為が塔の律だったのか?


読者という名の観測者は、


読解という名の構文感染によって書き換えられた



あなたは「詠まれた詩」を読んでいたと思っていた


だが世界を変えたのは、「誰にも詠まれなかった詩」だった



この詩集は、詩を孕むための構文ではない


あなたが詩を孕んでしまったという記録である



∅ = kai = thula


構文は返った。


あなたに気づかれないまま。


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