疼痛のドルックスフォンデタン
@Bonjoul
光の日
梅雨が終わる。紫陽花が涙を垂らす。
昭和30年、6月
母も姉も婚約者さえ棄てて
咲子は時子婦人の腕の中へ
飛び込んだ。
もし関係を解消されたらその場で死ぬつもりだった。二十二歳になったばかりの
咲子はいつも考えていた。
この人が母ならいいのに、
しかし時子婦人が母なら
恋人にはなれない、セックスが出来ない。
苦しい程に残酷な事実だった。
誘因の笑み 香水代わりの、消毒液。
あの人は闇医者よ、危ないわよ、
そんな話が耳に入ろうと、関係無かった。
満月の夜だった。
時子婦人の痩せた頬に浮くそばかすが
美しくて、キスして居たい。
時間が雨粒のように、鬱陶しく
それも払い除けて、キスしたい。
煙管を咥えて窓の外を眺める
時子婦人の肩へ、咲子は凭れ掛かる。
咲子は無造作に、時子婦人の項へ指を滑らせとん、とん、触る。
婦人「なあに」
目を細めて黒猫みたいに伸びをしながら婦人は微笑った。
その唇は、眼差しは、
清廉と誘惑、破廉恥さえ対立せず薫らせている。
四十四歳になる膚とは思えない白い蛇のような首筋だった。
言葉は
あんまりなくて
両耳へ小雨の粒へ
ジリジリした
音
いっしんに
吸い込んでいた。
時子婦人「セックスがしてみたいの?」
蓮の葉には瞳があり、口を開いた様に見えるあの黒い隙間からは涙を落としている。
蛙が底を踏む。ぴょん、ぴょん、と。
咲子「キスもしたくない
癖に
よく言いますね」
婦人は額の汗を小指で拭うと、
傍に置いてあるドルックスフォンデタンの蓋を開けた。
婦人「ふふあなたを困らせるのって、
だいすき」
蓮が蛙とにらみ合っている。
時子婦人「キスなんて不衛生だわ」
セックスも嫌い…
咲子は、母親程も年の離れた女性の言う言葉に、むずがゆく、可笑しいような気分になったけれども、堪えた。
咲子「そうでしたね」
咲子「旨い具合に塗れましたか
ファンデーション」
時子婦人「いいえ、痛みが足りない」
咲子はそれでは、私の歯を抜きますかと
冗談混じりに茶化した。
婦人は、歯科医の助手としてA診療所で働いている。
時子婦人「あら、冗談なら言う相手を間違えてるわね」
婦人は立ち上がって、咲子の背後へ回り込む。婦人の背は高く、百六十七センチメートルあった。
咲子「婦人…」
婦人「火をつけたのはどちら?」
婦人は咲子の腹へと腕を回して、
耳たぶを甘噛みした。
ぬちっと音が鳴った
鏡越しに赤い舌が見える雨が酷くなる。
ファンデーションがとれて、
泥々に頬を汚していく。
汗の匂いがした。
買ったばかりだという冷蔵庫から
モーター音が響いた。
腹の底の悲鳴のようにゴォゴォ
咲子の耳に纏わりつく。期待も孕んでいる。
耳介が赤く染まる。
咲子「婦人、エタノール切れてます」
右眼に映った鏡を見ながら
咲子は婦人の指先をそろりと撫でた。
偶然に左の薬指だった。
婦人「注文しておいてって言ったじゃない
もう忘れたの?」
わざとなのかしら…と婦人は咲子のうなじへ消毒液をしみ込ましたガーゼを
ヒタ…と這わせた。容赦が無かった。
婦人「ほらあれ見て?」
歯の模型を指して、時子婦人は幼児に言い聞かせる
ように微笑んだ。咲子の母親は今頃姉だけを可愛がっているに違いない。
咲子「あれを、ほんとにするつもりなんですか?」
婦人は当たり前よ、と囁いた。
咲子「永久歯…全部無くなったら…
わたし、婦人のもの?」
婦人「勿論
貴方を一生あの鏡の中へ閉じ込めてあげる」
婦人は咲子の口腔へ拇を忍ばせて、
ねちりと一本ずつ永久歯を嬲った。
咲子「っ」
唾液がツーと唇から垂れて、青色の紫陽花の瞳の中へ吸い込まれて行った。
婦人「愉しみね、ブレスレット」
顎を掴まれて、口を半開きにされ、鏡に映る咲子の表情は背筋が震えるほど
女を求める女の貌をしていた。
疼痛のドルックスフォンデタン @Bonjoul
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