第27話 男の不貞はこうやって始まったのか、
畳に正座したかん子がたとう紙にどこまでも黒に近い緋色の着物を納めつつ、豹の目を戸口に立った染矢に向けて聞く。「そんで内藤は、その刑事を潰せるんかいな?」と。
染矢が「服部という刑事の捜査手法は独特らしく、事件に関するありとあらゆる件を紙だしさせて、机の上に置いているらしいのです。その紙を見れば握っている証拠がわかると、それを処分したらいけるかと内藤は言ってます」とこたえると、聞きながら立ち上がっていたかん子は「ふっ、刑事が群れとる部屋で盗み見る⁈内藤にそんな度胸があるんかいな」と小馬鹿にするように鼻を鳴らして毒ついた。それでもかん子の声色は美しかった。桐箪笥の引き出しに角を揃えて重ねおきしたたとう紙を、舞人のようにひる返した右手の甲で何度となく撫でていた。カタログを見ただけで購入した着物だった。憂さ晴らしだった。着物の文様は四つ葉のクローバーが陽光をあびて、川底から浮かび上がったかのような、フワフワと水面をたなびくような、心象風景をかすりに託した本場大島紬の色泥染であった。
何かと騒がしい今日この頃、かん子に出来る事と言えば何事も“待つこと“だけだ。そんな日々はかん子にとっては窮屈でしかなく、前任の代行職とはなんと気ままで身軽な立場だったことかと、もうすでにその日々を懐かしく感じられるほどに、かん子の日常は鬱積する寡黙と金縛りのような束縛の昼夜だ。
かん子の父と夫はこの世界のトップだった男だ。かん子は組長としての重圧を十二分に理解していたつもりでいた。だが、しかしである。いざ自分がその立場になってみると、見えてくる景色は全く違うものだったのだ。父が紗子に走り、夫が本家に寄り付かなかった理由をかん子は理解した。厳然たる力を持ちながらも薙ぎ倒せず、発した言葉は重く受け入れられ、誰もが首を垂たれて従い、おのが命を盾として人生をも盲目的に預けてくる。組長が獲られれば勢力図は一変する、そうなれば今ままでの苦労が台無しになるのをみな知っている。だから組長に1人になる自由はない。いついかなる時も人に囲まれて孤独は感じないが、皆の前では顔色一つ変えらず、精神はどこまでも孤高となり、言葉数は極端に少なくなる。
窓を開け放ったかん子が「内藤の後釜にと送り込んだんがおったやろ?最近昇進したと連絡してきよった、なんて名前やったかな、、」と言えば、「長島です」と染矢が名を口にする。「せや、長島やったな。そろそろ使うてみたらどうや?」となにげなく言ったかん子に、足音を消して近づいた染矢は庭のすみずみにまで視線を走らせ、開けたばかりの窓を閉めつつ「5代目、長島はウチの切り札です。今はまだ上を目指させた方がいいかと思います」と少しくぐもった声と不明瞭な発音で口にした。その言いようと行動に不審を抱き、かん子は左手でテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを拾い上げた。
情報番組という名の下世話なワイドショーにチャンネルを合わせると、80年代のイントロクイズをやっていた。かん子はボリュームを3つほど上げ、あごをしゃくって染矢に座るようにうながす。染矢はその場に正座し、隣に座ったかん子が染矢の耳元で「本家やで、なにをそんなに警戒しとるんや?」と囁く。染矢はかん子の豹の目を見るや「どこに耳が立っているかわかりません。その名は口にされませんように、今はまだ」と絞ったような小声で言い、聞いたかん子は豹の目を細めて眼光鋭く染矢を見据え「理由はそれだけやないやろう」と声量はなくともキリリとする口調で言った。何もかも承知かと観念した染矢は「5代目が姐達に与えている待遇をこころよく思っていない連中がいます。刀根見が抑えていますが目白組の動向も気になります。今の大河原は一枚岩ではありません。残念ながら」と静かなる声で吐露した。しかしながら、なおもかん子が「そのこころよくは5代目のわての足をすくうほどにか?」と聞けば、染矢は「男の嫉妬は女のそれよりもネバついていて、狡猾で陰湿です」と長いため息でも吐くように口にする。かん子は深く眉間にシワを寄せた。
思考を深めるかん子に、手をついて額を広縁に押し付つけた染矢は「5代目、今はまだ襲名されたばかりです。息苦しさをお感じになっているのも重々承知しております。ですが、どうか、組内を掌握するまで無難を通してください」と声にならない声で言った。そんな染矢のへりくだりようを、目にしたかん子の寡黙のフタが意味なく弾けた。「わてに反感を持つ者が何人おるんや、ここに今すぐ連れて来てんか、腹割って話すから」と妙な冷静さで言ったかん子に、その態度に、かん子の沸点を感じた染矢は“しまった“と思いつつも首を振ってしまい「腹を割って話しても理解できません。器量不足だから対応しきれないだけです。それに5代目が言い聞かせる事ではありません。私が対処します。自重してください」と訴えたがすでに遅く。
ワラワラと腹の虫が踊り出したかん子は「わてが女やから!気に入らんだけやろうが!!」と言った、そして「ああーもう、辛気臭いわ」と小声で放ち、「車の用意してんか」と続け、「どちらへ行かれますか?」と聞いた染矢に、「ええから早よ!支度せえ!」と語気を荒げた。
“所詮は女や“と言った赤松の顔が……、染矢の脳裏で笑う。
車に乗ったかん子がスマホをハンドバックから取り出してかけ始め、繋がった途端に「わてや、長場はどこや?」と聞く。電話の相手は内藤だった。助手席の染矢は背筋をかすかに伸ばして振り返り、かん子と視線を合わせて「いけません、5代目。ホテルを取ります。そちらでお願いします」とハッキリと伝え、豹の目を見たまま運転する小松に「ロイヤルインペリアルに行け」と言った。
だが、なおもかん子は口を挟もうとする。染矢の目に青炎が宿る「5代目、後でケジメはとりますんで、携帯を切って頂けないでしょうか」と恐ろしく平坦な声だ。染矢の険しさを初めて目にしたかん子は、その内心でやり過すぎたと感じつつも、スマホを投げつける。頬に命中したスマホが音を立てて染矢の足元に転げ落ちる。あと一歩違えれば破綻する快楽とは、こうも心地よいものかとかん子は知った。
染矢は足元に転がったスマホを拾い上げて通話を切り、上着の内ポケットから自分のスマホを取り出して1コールでつながった内藤に「服部さんに伝えてくれないか、5代目が会うと。ああ、そうだ。同行する刑事はお前だけにしてくれ。そこはなんとかしろ。ああ、わかった。弁護士はいない。録音も無しだ」と言いつつスマホを右手に持ちかえ、左手の手首にある時計を覗き込んで「そうだな、わかった。一時間後にロイアルインペリアル。部屋が決まったらメッセージする」と言って電話を切った。
続けざまに染矢は電話を掛ける。随行する後方の車に乗る椎田から「はい」と返るや、染矢は「先行して準備を整えてくれ、刑事と会う。場所はロイヤルインペリアル。最上階のロイヤルスイートと廊下を挟んだ真向かいの部屋を取ってくれ。それから真向かいの部屋に高橋を呼んで、刑事の出入りを隠し撮りさせろ」と言った。
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