第19話 紫炎
この日、かん子の5代目襲名式が行われていた。
大広間の中央に座るかん子は新調した純白の着物に合わせて、こちらも新調した帯ひもと帯揚げのどれもが純白で、半襟だけが青葉香る萌葱色で凛々しく、白磁色の礼装用袋帯には白絹糸で弾丸の絵柄が散りばめてあった。かん子と向かい合って正座する男たちもみな着物姿で、紋付きの羽織も仙台平の袴も同じく純白で、一人また一人とかん子との親子盃を交わしていた。
そして物珍しいのはその荘厳たる誓盃儀礼の場に、これまで決して立ち入りを許されてこなかった女達の姿があったことだった。女達も総じて白い着物を纏い、目を伏ふせる事もなくその様子を見守っていた。そう、この女どもはいわいる“姐“と呼ばれる女達である。
かん子の5代目襲名式の後見に立ったのは、大河原組の先代・大河原朱鷺と5分の兄弟盃を交わしていた岡田組総裁で、誰もが一目置く伝説の渡世人である岡田の後見は、岡田自身が言い出した事で、そんな岡田が女たちの列席を許したのだから、誰も文句をつけられるはずもない。
締めの口上が終わると、かん子は豹の目でゆるりと男たちを見回し「女もこの稼業のしきたりを、体に刻む機会を作ってやりたかったんや、男にはわからん苦労をあんさんらは嫁に強いてる。今更やけど、それでもあんた達を支えてる姐達は己の男を本まもんにする為に、毒をも煽る気概で毎日を生きてる。わてがあらめて謝恩会でもすればええ話やけど、この子達にもケジメを作ってやりたかったんや。我がままゆうて申し訳なかった」と言い、豹の目を後方へと運び、恐縮する女達の一人ずつにその目を合わせてゆき終わると「これからも苦労をかけるが、宜しく頼む」と頭を下げた。「有難うございます。5代目、何があろうとお守りします」と声を上げたのは十和子だった。十和子は執行部最古参、筆頭若頭・佐藤俊朗の後妻である。
佐藤は苦労して今の地位を得た。それを支えてきたのは十和子の商才で、誰もがそれを知っていた。もちろん佐藤自身の努力と組に対する賢心があってこそだが、佐藤は誰はばかる事なく「今の自分があるのは十和子のお陰だ」と機会を得えれば公言し、十和子を宝のように扱い、誉れと慈しんでもいた。愛人を囲うのが甲斐性と謳われる世界で佐藤は愛人を持たず、外戚子もおらず、十和子との間に子はなかったが、養子縁組した男児3人、女児2人を育てている。
隣の大座敷に場を移しての食事会となり、濃紺の着流しに紅色の腰紐を襷掛けにした男衆が介添する中、赤松は立ち上がると目を伏してかん子の前に正座した。場が静まり返る。皆の目が二人を見ている。赤松は折目正しく深々と頭を下げて「5代目、ご襲名おめでとうございます。今後ともよろしくお願い致します」と静かなる低音を響かせた。いつもの大阪弁ではなく、完璧な標準語のイントネーションでだ。一瞬、顔をしためたかん子ではあったが、鷹揚に「有難う」と受けいれ、「執行部の再編成について意見を聞かせてほしい。染矢から連絡させる」と言った。伏したまま「承知しました」と言った赤松は顔を上げ、手のひらを拳に変えて、かん子の右隣に座る岡田の前に移動すると、再び平伏して「叔父貴、5代目の後見ありがうございます」と言って顔を上げた。赤松の目を見た岡田は「やんちゃ小僧も男を磨いたと見える。懐かしいな、赤松よ。お前をうちで預かったのは確か17歳の夏だったか」と言った。無表情の赤松は「はい。何年もご無沙汰して申し訳ありません。その節はお世話をおかけしました。近いうちに北陸にお伺わせてください」と言いつつ、膳からガラス徳利を手に取って岡田に酌をする。
スーツ姿でかん子の左後ろに控えていた染矢は、もれ聞こえてきた“17歳の夏“と耳にした途端、ズキリとこめかみが痛んで目がくらんだ。染矢には17歳の夏の記憶がなかった。キャンプ先の川で溺れ、病室で目覚めた時には記憶を失っていた。何が起きたか思い出そうとすれば激しい頭痛に苛まれ、発熱を繰り返した遠き夏の日。染矢の背中をゾクリとする冷気が這上がってくる。身震いを封じ込めようと拳を握りしめて耐えたが、額に冷や汗が浮きだす。片頭痛の気配を追い払おうと左右に頭を振った。
その気配に気づいたかん子が、振り返って染矢を見た。近頃は鳴りを潜めていた染矢の変調を見たかん子は「外の風にあたってき」と囁く、染矢は「申し訳ありません。すぐに戻ります」と頭を下げ、急に立ち上がったらめまいに襲われた。落ちてゆくような浮遊感をなんとか断ち切って廊下へと出る。戸の近くに立っていた椎田に染矢が「少し外す。5代目の側についていてくれ」と言うと、椎田は「これを」と言いながら、内ポケットから取り出した錠剤を差し出した。「持っていてくれたか、ありがとう」と受け取った染矢は「頼んだぞ」と言い残して歩き出し、歩きながらパッケージから取り出した錠剤を口に放り込んで噛み砕き、疼きだしそうな頭痛に一つ「クソ」と悪態をついた。
★
この日、襲名式が行われている“夏川“は大河原組の3代目が、神楽坂で芸妓をしていた妾の紗子に買い与えた料亭だ。純和風の二階建て家屋が80平米ほどの中庭をグルリと囲み、中庭の真ん中には8の字の池が設えてあった。その池には紅色の太鼓橋が架けられ、今その橋のたもとには季節外れの菖蒲が咲いていた。あやめ紋は大河原の家紋である。紗子が用意させたものだった。染矢は橋の中央に立ち、欄干に両肘をついて泳ぐ錦鯉を眺めていた。新緑の風に吹かれたからか、頭痛薬のお陰か、鼓動しかけていた片頭痛は発芽する事なく去っていた。良かった。こんな日にあの痛みに耐えるなんてごめんだと、この大馬鹿者めと己を咎めてはみたものの、相変わらず自分への興味は湧いてこなかった。実感もなければ、そうなったらそうなったで我慢するしかないだろうと、どこか他人事のような乾いた考えが浮かぶだけだった。
精密検査を受けたが片頭痛の原因は見つからず、溺れて生死を彷徨ったことによる心的外傷だろうと診断された。カウンセリングと睡眠療法に明け暮れた17歳の夏。赤松は北陸に行き、一人とり残された夏。記憶を無くした夏。いつもより涼しかった夏。不安しかなかった夏。両親と明子の墓参りに初めて行った夏。
「まだ、悩まされてたんか」と赤松は声をかける。振り向いた染矢が顔を戻しながら「2年ぶりだ。もう治ったと思ってたんだが…」と力なく言うと、「今日のきっかけはなんやったと思う?」と聞きながら染矢の隣に立った赤松に、染矢は「緊張したんだと思う」と答え、赤松はタバコに火をつけながら「そんなヤワやないやろう」とつぶやいた。紫煙を見つめていた染矢が「一本もらえるか」と言うと、タバコケースを差し出した赤松は染矢がくうわえた煙草に、自分の口端にある煙草の鋒を近づけて火種を分けてやった。移し火しながら「ジッポは?」と聞いた染矢に、赤松は「オイル切れ」と応える。そして赤松は「お前んとこの若竹、沖縄の金城とこに修行に行かせた」と言った。染矢が「嘘つけ」と笑う。笑う染矢は「使えないやつは、何をどうしてやっても変われない。あいつは恵まれすぎていたんだ」と口にする。染矢の横顔をチラリと見た赤松は「いい迷惑だったろう、5代目に押し付けられて…、うちで引き取ると言ったんやが…」と歯切れ悪く言った。すると染矢は「お前に預けたら、こうなるとわかってたんだよ、代行は。あっ、5代目は」と言い直して、「結果は同じだったけどな」と続け、笑みを深めた。
「代行だろうが、5代目だろうがどっちでもいい。俺の前では気にするな。せや、お前、高橋やるつもりでいるやろう。まだ使い道あるんやから早まるなよ。それにお前が手を汚す必要はない」と話の矛先をいきなり変えた赤松を、染矢はゆっくりと体を反転させて欄干に腰を預け、苦笑しながら見ていたが、やがて「俺の事情に詳しいな。本家の誰から情報を抜てるんだ?」と聞いた。
破壊的かつ魅惑の笑顔で、染矢の視線を受け流した赤松は「お前も俺の事情を万智子に報告させてるやろ、お互い様や」と言った。染矢が「実子のお前の動向は本家に関わるんだよ。5代目付きの俺が知らないわけにはいかないだろうが」と言い返すと、赤松は「そう、不機嫌な言い方するな。本家の事情を知っておくのも実子の仕事なんやから」とゆったりとした口調でなだめるようにささやいた。なおも染矢が「その自覚があるなら、少しは自重しろ」と諌めると、「そやな」と微笑んだ赤松はふところからスマホを取り出し、左手の親指で操作しながら「なぁ、このあいだ話したことやけど、今はまだ心にしまっておくんやぞ」と言いつつスマホを耳にあて、染矢の目を見て「今まで通り5代目の面倒みてんか、俺の代わりにな」と微笑んで、繋がった相手に「いぬるぞ」と言った。電話の相手は水沢だろうと染矢は思う。電話を切った赤松は歩き出し「じゃなぁー染、それから薬は水で飲むもんや」と言い残す。その背を見送る染矢は「いちいちとは言わない、何かする時は、事を起こすなら連絡をくれ」と言った。
染矢は後ろ手で手を振る赤松に、“また置いてきぼりかよ“と思えばため息が出る。お前が本家を出ず、赤松組を作らなければ水沢ではなく、俺がお前の補佐をしているはずだ。澄んだ空気、明るい未来、希望にあふれる明日を待ちきれず、あの頃のように語り合っていたはずだ。
ひたる染矢の携帯が鳴る。椎田からだった。「いまから戻る」と告げた染矢に、椎田が「岡田総裁が赤松さんとお帰りになります。水沢から銀座に出ると聞きました」と報告した。襲名の日に後見を連れ出すとは…、実子だから許される…、実子だから嫉妬される…、火の粉を浴びるようなことしゃがって、「クソっ」と口から出そうになるのを飲み込んだ染矢は「わかった。玄関前で合流する」と言ってから、赤松にはボディガードがついているが、岡田総裁は側近を一人しか連れて来ていない。こちらに身を任せていると思えば粋なことだが、何かあったら責任の所在は5代目に飛んで来ると、気苦労の染矢は考え「俺らも一緒に出て総裁の警備につく。駐車場の一番奥に車をスタンバイさせといてくれ。西村と内田を連れてゆく。お前は残って5代目を頼む。怠るなよ、5代目の晴れの日だ」と指示するや、脊髄反射の椎田が「西村を残して、俺が行きます」と返してきた。染矢は「いや、お前は頭も腕も立つ。お前に任せたい。ここで5代目に何かあったら大河原の面目は丸潰れだ」と言った染矢の耳に、「承知しました。お任せください」正したでであろう凛とする背筋が見えるかのような椎田の声が届く。
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