赤松が向かったのは是枝のセーフハウスだった。3人掛けソファ中央に座った赤松は心情に辛く渦巻く因果をその端正な顔立ちの奥に隠し、加虐を発動させながら上着の内ポケットから婚姻届を取り出すと「これ」と言いながらテーブルの上に置いた。テーブル越しに座る時子が記入済みに歓喜を迸らせる。そう夫の是枝を亡くしたばかりの是枝組の姐、時子だ。

　「半年やったかな、そしたら受理されるらしい。それまで時子さん、あんたが持っといてや」と言った赤松の声は聞いている方が息苦しくなるような、重苦しく感じるような、喉の渇きを覚えるような生真面目な男の低音だった。そんな声色で話しておきながらも赤松の面差しは穏やかで、男前で、見る者を魅了してやまない顔つきで、その顔をトロンとした目で見つめる時子は“どうして、あの時“と見惚れながら後悔した。

　時子が是枝と知り合った時、赤松も一緒だった。是枝の運転する車が自転車に乗った時子と接触事故を起こしたのだ。是枝は時子に一目惚れした。入院している時子を毎日見舞い、最初は赤松も一緒に訪れていたが、そのうち時子を赤松に取られるのではないかと邪推した是枝は、妄想に駆られて一人病室を訪ねるようになった。あれこれと手を尽くして時子を口説いていた是枝だったが、それだけでは安心できず、平凡な男の仮面をはぎ取って犯すように時子を抱いて我がモノとした。

　時子を抱き潰した後「ヤクザだ」と明かし、「俺の物にならなかったら殺す」と真に迫った言い方をして泣く時子を説き伏せ、時子は時子でその凄みにキュンとして、是枝が差し出された愛に頷いた。しかしながらそれは“愛されている“に満足しただけの承諾で、時子は是枝が欲するほど是枝を愛してはいなかった。是枝を帯びただしいくも散々たる浮気に走らせたのも、そんな時子の胸中に薄々気づいての事だったのかもしれない。歪な一方通行の愛に是枝は壊れたのだ。時に愛は心を惑わせる誤解から始まる。是枝はその誤解の底に自ら堕ちただけだ。

　時子は情というものが是枝のそばにいても湧わかなかった。是枝か死んだ今、なぜだろうと考えれてみれば是枝がもたらす金であり、待遇であり、姐と呼ばれる立場であり、浮気を繰り返す夫を寛容に許して受け入れて見せる自分への評価が気持ちよかっただけで、何もかもが愛じゃなく、嫁という立場が心地良かっただけで、されど時子はそんな自分を恥ずかしいとは思わない厚顔の持ち主で、だからこそ是枝の思いを踏みにじる事ができ、ゆえに赤松と対等に話が出来る自分を自賛する余裕を持っていて、あの時やっぱり赤松を選べば良かったと後悔できるのだった。

　そんな時子が「お葬式が終わったら…、相談に行こうかと思っていたのよ。これからどうすればいいか…、わからなくって」と甘ったるい女の声で囁きながら赤松を見つめ、赤松も熱を帯びる目でその目をみつめ返し「そういえば３ヶ月前やったかな、是枝さんが溜め込んだ金は24億で、そのからくりやら何やらの一切合財を教えてくれたのは時子さんやったな。約束通り、あんたの事はこれから俺が守るし、是枝組は俺の配下に置く。先の話しよか」と誠実な男の顔で語り、その声色と語り口調に半年前から始まった赤松との合瀬を思い出した時子ははしたなく濡らしていた。そうなりながらも時子は「すぐでなくてもいいでしょう。代行ともお話してねぇ、執行部の皆さんにこれからの私の立場をね、言い付けてもらってからにしたいの。ねぇ、何か食べに行かない？」とあっけらかんと言った。「そやな、行こか」と微笑でうなずいた赤松が、突然、時子を見つめ貫き破壊的にはにかんだ。その表情に撃たれた時子が「うんん」と女のうわ滑る声をだし、見つめる赤松に尋ねるように首を傾げた。恥ずかしげに下を向いた赤松が「うちへの振り込みを約束通りに今してくれへんかな。ちょっとピンチで不渡りだしそうなんや」ときまり悪く呟く。

　「しょうがないな、これからは私が管理するから」と言った時子の前に、進み出た水沢が平伏し「よろしくお願いします！！姐さん！」と持参した通帳と印鑑を差し出す。慣れた手つきで受け取った時子はスマホを操作しながら「まずは３億でいいかしら」と言いながら是枝組が管理する口座から手渡された通帳へと金を移すと、「後で取引先の帳簿を見せてね、処理しときます」と言ってその通帳と印鑑をシャネル23Aのハンドバックに収めた。その様子を見届けていた赤松が「これであんたは俺のもんや。代行に是枝組の後目は青木に譲ると時子さんからも言ってや。月々の手当は20万くらいでええかな？」と優男の口利きで言うや、突如の時子が「な、何言ってんの！！た、たったの！！2、20万！！約束が違うわ！なにも不自由は！！させないって言ったじゃない！！」とカナギリ声を上げる。その最中ふと振り返った赤松が水沢に頷く。水沢は廊下に出るなり「おーーい」と隣部屋に呼び掛けた。

　青木だった。時子の前に現れたのは死んだ夫、是枝夏生の右腕で是枝組の若頭・青木修二だった。青木は右手でズタボロの若竹を引きずってもいる。その登場に時子は言葉を忘れ、時を忘れて、見開いた目を青木に向けていた。対する青木の目は爬虫類の如き目で、感情が抜け落ち、体温の感じられない瞳孔の狭き目で時子を射抜いていた。

　青木はおもむろに左手に持っていたジョウロを若竹の口に突っ込み、中身をゆっくりと流し込んでゆく。コンクリートだった。笑う赤松は時子の背筋が凍ってゆくのを存分に楽しみながら、時に「やる時は徹底せなな」とか、「舐めた口を聞くもんやから」とか、「後ろ盾の亭主が死んだんやから、しゃあないな」などと、時子の耳に届くような、届かないような舌妙な音量でささやき時子を刻んでいた。ヤクザである。ヤクザなのだ。その道のエリートだ。タイミングと言葉のチョイスを間違えるはずがない。

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　時を失った時子の目先で、奇妙な音を立てながら若竹が3杯目のコンクリートを飲まされていた。時子を観察していた目をスゥーと細めた赤松が「人の口はな、なんとでも、いくらでも、なんだって言えるんやで、時子さん」と笑う。血の気が引いた時子の目が吸盤のように赤松に吸い寄せられる。その目に視線を合わせた赤松が「愛してるよ」と真摯な口調で告白した。実直を絵に描いたような面差しの赤松が時子を見つめてささやき出す。「お前を側においておきたい。いつでもお前は俺を滾らせる。この気持ちは本物や、お前を俺のもんにしたい。もう離れるのは嫌や」

　馬鹿ウケした水沢が笑い出す。

　それでも赤松は「俺はうちのモンに付け狙わせて、あんたを引きこもりにする事だって出来るやで。それにあんたが消えても、世間様には青木が寝込んでますと説明すれば済む話なんや」と意地の悪い声で言った。笑い声を上げながら、時子の前に進み出た水沢が時子にファイルを差し出す。時子が受け取った瞬間、水沢は身をひるがえした。もちろんその一瞬を逃さない水沢は、時子の膝の上にあるハンドバックのチェーンを引っ張り、手元に引き寄せるのを忘れない。差し出されたファイルを無造作に受け取った時子はきょとんとして、こんな時でさえ与えられる事に慣れきった女かと赤松は呆れ「めくってみ」とアゴで促した。

　ファイルの中身は青山にある是枝の自宅と組事務所のビル、ハワイと軽井沢に所有している別荘、愛人との密会用のマンション2つに、フロント企業の法人名義の口座と是枝の個人口座、そんな諸々の名義変更とその全てを青木に譲渡するという書類だった。

　「青木」と赤松に呼ばれた青木は、使い捨てビニール手袋を右手から外しながら、ゆっくりと歩み寄った椅子の背に掛けてあった上着の右ポケットに、その手を突っ込んだ。出てきた右手には3つの実印が握られていた。時子の目が青木の手のひらを凝視する。「金庫の番号、知っていたの？」と時子が場違いな声で聞く。青木は冷め切った目で時子を見据え「ほんの少しでよかったんです。オヤジを大切にしてくれていたら、こんな事はしなかった。サインしてください」と無味無臭・人畜無害の声で答える。青木は是枝の無念を知っていた。「俺にはもったいない」と常々口にしていた是枝の一途を知っていた。

　サインし終えた時子が虚ろな眼差しで青木を見上げる。冷笑の赤松が「俺らの恐ろしさが骨身に沁みたようやな。両手を広げてジョウロに触れ」と冷酷さを全面に押し出して言うと、青木が差し出したジョウロに時子は触れた。その様子を水沢が撮影し始め、言われるがままに馬乗りになって若竹の首を絞めた。事切れた若竹の衣服を整えている時子に、青木が「頭を振れ」と言う。DNAを付着させる為だった。

　馬鹿みたいに髪を振り乱して頭を振る時子を見て、青木は是枝を思って泣いた。水沢が泣く青木の手にハンドバッグと時子のスマホを握らせる。

　この日から時子はこの部屋で暮らし、もちろん青木は時子に対して是枝のように甘くなく、小遣いなんてモノは渡さず、是枝の葬式には療養中として参列させず、2度と会わず、組が招いた賓客のおもてなし係とした。