龍の書斎 ~迷える若者と叡智の導き手~
松宮 黒
第1話『迷える者、龍と出会う』
【あらすじ】
将来に希望を見いだせず、心に虚無を抱えながら日々を過ごす大学生・結城和真。ある寒い春の夜、彼は学生街の片隅で上品なアンティークカフェ『Café RYU』に迷い込む。そこには、常人とは異なる気配をまとった店主――老龍と名乗る男がいた。老龍との哲学的対話を通じて、和真は人生に対する見方が静かに、しかし確かに変わっていく。
【登場人物】
■ 結城 和真(ゆうき かずま):20歳。将来への不安に押し潰されそうな大学生。夢も目標も見えず、日々を彷徨うように過ごしている。
■ 老龍(ろうりゅう):『Café RYU』の店主。人の姿をしているが、その本質は古の龍。あらゆる知識と深い洞察力を持ち、迷える者に“問い”を与える存在。
◇夜の彷徨◇
春の夜風はまだ冷たく、街の灯りはどこか遠く感じられた。大学生・結城和真は、バイト帰りにただひたすら歩いていた。胸の奥に渦巻くのは、名付けようのない焦燥感。息を吐くたび、虚しさが肺に染み込んでいくようだった。
「……俺は、何のために生きてるんだろうな」
言葉にした瞬間、現実が輪郭を持って突き刺さってくる。周囲の友人たちは内定先を決め、恋人との将来を語り合う。SNSには楽しげな日常が溢れている。自分だけが世界から取り残されているような感覚。
進む道が見えない。情熱も、野望も、何もない。日々をこなすことで精一杯だった。
そんなときだった。人通りの少ない裏通りに足を踏み入れた瞬間、視界の隅に吸い寄せられるような光を見た。
『Café RYU』
古びたレンガの壁に、真鍮の取っ手がついた木の扉。上品な筆記体で書かれた看板が、淡く光っていた。学生街の片隅――人の気配が薄れた空間に、そのカフェはあった。
「……こんなところに?」
訝しみながらも、和真は扉に手を伸ばした。
◇Café RYU◇
カラン……と、真鍮のベルが控えめに鳴った。その音は、まるで異なる次元への合図のようだった。
室内は別世界だった。
アンティーク調のランプが、琥珀色の光を天井から投げかけている。革張りのチェスターフィールドソファ、棚に並ぶ洋書と哲学書、壁にはモノトーンの静物画。香り立つのは深煎りのコロンビアブレンドと、木の温もり。
中央のカウンターには、一人の男。
白髪まじりの髪に整えられた髭。深い灰色のロングコートを纏い、手元には年代物の懐中時計と黒革の手帳。
その男は、こちらを見ていた。
「ようこそ」
声は低く、深い音色だった。だがその響きには、静かに胸を揺さぶる力があった。
「君は、“今この場所”を必要としている」
◇導きの対話◇
「……なんで、そんなことがわかるんですか」
自然と口をついて出た疑問。男――老龍は、ふっと笑った。
「悩みは、顔に出る。だがそれだけではない。わたしの店に来る者は、皆“心に問いを持つ者”だ。偶然のようで、偶然ではない」
和真は勧められるままに席についた。目の前に置かれたカップから立ち昇る湯気に、知らぬ間に肩の力が抜けていく。
「……大学には行ってるんです。でも、何をしたいのか分からなくて。就活も怖いし……夢とか、情熱とか、全部、自分には関係ないものみたいで……」
老龍は静かに頷き、本棚から一冊のノートを取り出した。黒革の装丁。金色の文字でこう記されていた。
『内なる龍を呼び覚ます』
「君が抱えているのは、“無”ではない。“問い”だ」
「問い……?」
「“何のために生きるのか”“何が正しいのか”“どうありたいのか”……その問いがある限り、君はまだ進める」
「でも、自分には何もないんです。行動力も、自信も……」
「君は今、ここにいる。それが“最初の行動”だ」
◇恐怖の正体◇
「……俺、怖いんです。挑戦して失敗するのが。それでまた、自分がダメなやつだって思い知らされるのが」
老龍は一口、珈琲を啜った。
「人が恐れているのは“失敗”ではない。“傷つく自分”だ。だが、恐怖を消そうとするな。それは生きている証だ」
「でも……怖いです」
「ならば、怖れながら進め。“勇気”とは、恐れないことではない。“恐れを知りながら進む”ことだ」
和真は視線を落とし、指でノートの表紙をなぞった。
「……俺にも、変われるでしょうか」
老龍は目を細め、静かに言った。
「君の中には“龍の芽”がある。それを育てるか、枯らすかは君次第だ」
◇灯火◇
和真は、ノートを両手で抱き締めた。
その重みが、これまで逃げてきた“自分の人生”そのもののように思えた。
「……また来てもいいですか?」
「“問いを抱く者”に、この扉はいつでも開かれている。だが、“答え”は与えぬ。“選ぶ力”だけが、人を導く」
カフェを出ると、夜風は変わらず冷たかった。だが、胸の奥に小さな火が灯っていた。
それは不安でも期待でもなく、“まだ知らぬ自分へのまなざし”だった。
◇その夜、空に星はなかった。けれど心の空に、小さな光が一つ、確かに宿っていた。
【エピローグ】
カフェの扉が閉まる音が、和真の背に小さく響いた。
彼の足取りはわずかに軽くなっていた。まだ何者でもない。だが、何者かになろうとする“意志”が芽吹いた夜だった。
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