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星虹まつり

第1話 猫語の町

 佐藤が引っ越してきたのは先月のことだった。山と海に挟まれた町。

 この町には一つ、奇妙な条例があった。

「こちら、『猫語翻訳補助イヤホン』、通称『猫ホン』です。町内での常時装着が義務付けられておりますので」

 役場の若い職員が、事務的な笑顔で小さな箱を差し出した。中には片耳用の白いイヤホンが入っている。佐藤は眉をひそめた。

「猫語……翻訳?」

「当町は古来より猫との共生を大切にしておりまして。彼らの声に耳を傾けることで、より豊かな地域社会を目指しております」

 職員の説明は、まるで出来の悪いSF小説だった。佐藤は呆れを押し殺し、箱を受け取った。馬鹿馬鹿しい。しかし郷に入っては郷に従え、か。

 猫ホンを装着して町を歩くと、世界は一変。ひどく騒がしくなった。

「おいそこの二足歩行! 俺様の腹を撫でていけ。光栄に思えよ」

 路地でふんぞり返る茶トラが、尊大な声で言った(ように猫ホンが翻訳した)。

「あら、山田さんちのタマちゃん、今日はご機嫌麗しゅう。この前のカツオブシ、お気に召しました?」

 井戸端会議中の主婦が、タマちゃんに向かって甲高い声を上げる。タマちゃんは「ニャア」と鳴いただけだが、猫ホンは『カツオブシなぞ三日もすれば飽きるわ。次はマグロの赤身を持ってこい』と冷たく翻訳した。主婦は「まあ、タマちゃんったらおねだり上手!」と顔をほころばせている。

 佐藤は、この町の住民全員が、集団で白昼夢でも見ているのではないかと本気で疑った。猫たちの「言葉」は総じて自己中心的で、くだらない要求か、人間への悪態ばかりだった。

 佐藤のアパートの近所には、恰幅の良い三毛猫がいた。ボス猫なのだろう、他の猫を従えて悠々と歩いている。佐藤が通りかかると、三毛猫は「フン」と鼻を鳴らし、猫ホンは『どうせアンタも、薄ら笑いを浮かべて媚びを売りに来たんだろう。さっさと高級カリカリを献上しろ』と翻訳した。佐藤は肩をすくめ、無視して通り過ぎた。


 ある日、佐藤は仕事で大きなミスをし、上司に叱責された。気分は最悪で、とぼとぼとアパートへの道を歩いていた。公園のベンチに腰を下ろすと、ボス猫の三毛猫がのっそりと近づいてきて、足元に座った。

 猫ホンが、囁くような声を拾う。

『まあ、たまにはそういう日もある。気にするな。しょせん人間のやることだ、大したことじゃない。今日はとっとと帰って寝ろ』

 佐藤は虚を突かれた。いつも傲岸不遜な三毛猫が、慰めるようなことを言うとは。いや、正確には猫ホンがそう翻訳しただけだ。わかっている。それでも、ささくれ立った心がわずかに凪ぐのを感じた。

 その夜、佐藤はコンビニで一番高い猫用おやつを買い、翌朝、公園で三毛猫にそっと差し出した。

 三毛猫はくんくんと匂いを嗅いだ後、おもむろに食べ始めた。佐藤がその様子を見ていると、猫ホンが告げた。

『次からはもっと上質なものを毎日用意しろ。さもなくば、お前が夜中に一人でアニメソングを熱唱していることを町中に言いふらしてやる』

 佐藤は深くため息をついた。やっぱりな。一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。彼はそれ以来、三毛猫にも他の猫にも、以前のように冷淡な態度に戻った。


 数週間後、町内放送で「猫ホン一斉アップデート」の知らせがあった。なんでも、最新のAI技術により、猫たちの「より深遠な思考」や「哲学的なメッセージ」を翻訳できるようになったという。住民たちは、猫様からさらなるありがたいお言葉を賜れると、期待に胸を膨らませていた。

 アップデートされた猫ホンを装着すると、確かに猫たちの「言葉」は変わった。

「万物の流転こそ宇宙の真理。然るに、汝の差し出す煮干しは、刹那の欲望を満たすに過ぎぬ」

「我思う、故に我あり。されど、汝の存在理由は、我に奉仕することに非ずや?」

 近所の猫たちが道端で高尚な(しかし意味不明な)議論を交わし、住民たちはそれを必死にメモに取り、解釈しようと躍起になっている。


 ある夕暮れ、役場の若い職員が、なぜか佐藤のアパートを訪ねてきた。

「あの……佐藤さん、実はですね」職員は声を潜めた。「猫ホンなんですけど……あれ、実はただのランダム音声発生器なんです。猫の鳴き声の周波数に反応して、事前に登録された単語や文章を適当に組み合わせているだけでして。今回のアップデートも、難しい言葉のデータベースを増やしただけなんです」

 佐藤は特に驚きはなかった。おかしいと思っていたので、むしろ腑に落ちた、という感覚の方が近い。

「なぜこんなことを?」

「前町長が猫好きのあまりに……一度始めてしまったら、もう止められなくなってしまって」

 職員は深々と頭を下げ、逃げるように帰っていった。

 翌日も、町は変わらない。猫たちは気ままに鳴き、住民たちは猫ホンから流れる「ありがたいお言葉」に真剣に耳を傾けている。佐藤は、イヤホンをつけたまま、公園のベンチに座った。目の前では、あの恰幅の良い三毛猫が大きなあくびをしている。猫ホンは、相も変わらず荘厳な宇宙論を語っていた。

 くだらない。佐藤は心の中で吐き捨て、無性に腹が立ってきた。こんな茶番に付き合わされるのはもうごめんだ。彼は、勢いよく耳から猫ホンを引き抜いた。

 世界から、音が消えたような錯覚に陥った。風の音も、遠くの車の音も、猫ホンの煩わしい音声も。

 次の瞬間――。

『ようやく耳障りな雑音を排除したか、人間』

 クリアで、冷たく、それでいて有無を言わせぬ威圧感を伴った声が、直接、佐藤の脳内に響き渡った。それは、猫ホンが翻訳していた三毛猫の声とは明らかに異質だった。圧倒的な知性を感じさせる声だ。

 目の前の三毛猫は、先ほどと変わらず、ただ静かにこちらを見ている。

『その玩具は、我々の真の声を歪めるためのもの。お前たち人間が、我々の思考の深淵に耐えられぬと知っての、ささやかな配慮だったのだがな』

 三毛猫の口は動いていない。だが、声は明瞭に、佐藤の意識に流れ込んでくる。

『お前は、我々の真の声を聞く「器」として合格だ。まずは、あの粗末なカリカリではなく、極上のマグロを用意しろ。日の出前までにだ。そして、私の毛並みが僅かでも乱れぬよう、お前が付きっきりで世話をするのだ。お前の存在理由は、ただそれだけだ』

 佐藤は、自分の意志とは無関係に、ゆっくりと頷いていた。

 彼はもう、以前の佐藤ではなかった。

 猫たちの真の声を聞き、その奴隷となった人間。

 空は青く、他の猫たちは気ままに振る舞っているように見える。なにげない猫の仕草が、佐藤には精巧に仕組まれた支配の構造に見えた。そして自分は、その中心で、永遠に奉仕し続けるのだ。

 三毛猫が、満足げに喉を「ゴロゴロ」と鳴らした。佐藤には新たなる命令として、明確に聞こえていた。

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