第10話 夜の音

 羊雲での食事は朝、昼、晩の一日に三回、寮棟に併設された食堂にてビュッフェ形式で供される。食材は毎週月曜に一括で納入され、調理は交代制の食事当番に選ばれた生徒が担う。


 生徒のなかには羊雲に来るまで一度も調理場に立ったことのない者もいるため、週一回の家庭科の授業でスキルの均一化を図っているが、当然ながら担当者によって味のレベルはまちまちだ。したがって――


 まあ、こうなるわよね。


 と実子は内心で呟きながら、他の総菜よりも圧倒的に数を減らした豆腐入りの薄切りハンバーグを一枚、皿に取った。

 今週の調理担当には美千代が含まれている。

 彼女は羊雲に来る前はスナックを取り仕切っていたそうで、料理の品質も高いところで安定している。また本人の人柄も相まって、朱音の群れに属する生徒以外は我先にと手を伸ばす。そう、食堂は担当者のクラス人気を如実に表す投票場となるのだ。


 チッ、と小さな舌打ちが聞こえ、実子は肩越しに振り向いた。

 その朱音が、実子のもつトレイを覗き込みながら言った。


「実子ちゃん、そのハンバーグ、本当に大丈夫なの?」


 まるで犬の肉かと疑うような、明らかに不満そうな声音だった。

 参った人ね、と実子は眉根を上げつつ微笑み返す。


「さあ? 私が毒見するから、大丈夫そうなら試してみたら?」

「いやあよ。レシピ見ないんだもの。なにが入ってるか分かりゃしないわ。みんな、なんで平気で食べられるのかしら。私わかんないわ」


 そうぶつくさ言いながら、朱音は他に比べて余りがちな煮魚を拾った。朱音派でも美千代派でもない生徒が作ったのだろう、身が崩れていた。けれど――いや、だからというべきか、料理に不慣れな朱音は気づいていないが、美千代が手を加えて整えたであろうことは明らかだった。同じ当番なのだから当然でもあるが。


「実子ちゃん、あそこにしましょ」

 

 と、朱音は実子の返答を待たずに食堂の一角、六人掛けの空テーブルへと顎を振ってみせた。断る理由は特にない。実子は素直にあとにつづいた。


「――それで? さっきのあれ、なんの話だったの?」


 食事をはじめてしばらく、とうとつに尋ねられ、実子は豆腐入りハンバーグを喉につまらせかけた。

 実子が咳き込んでいると、朱音が背中を擦りながら言った。


「あら嫌だ。ちょっと、大丈夫? まさか本当に毒でも入ってたの?」

「――違うわよ」


 実子は咳払いし、朱音派のから水出しの緑茶を受け取り、喉を湿らせた。


「思い出し笑いが喉に引っかかっただけよ」

「なにそれ? そんなことあるの?」

「私もはじめて。あれはね――」


 実子は短い思案を挟んで答えた。


、横溝正史と江戸川乱歩を間違えて覚えてたの」


 朱音はきょとんと眼を瞬き、実子の肩を撫でさするようにして押した。


「いやあだあもう! 実子ちゃんったら! ちゃんと授業に出ないからよ!?」


 ほとんど同時に、朱音の群れがねえええ、と鳴いて笑った。ちょっとした記憶違いと授業にどんな因果関係があるというのだろう。思いはしても口にはしない。代わりに言うのは、


「次からはちゃんと出たほうがいいかもしれないわね」


 昔は苦手でできなかった、誰に向けたものでもない同意の言葉だ。すぐに流れて誰もが忘れ去るような話のはずだった。

 しかし、たったひとり、律儀に応答してきた。


「本当だよ。初石さんはちゃんと授業に出たほうがいいよ」


 中沢大志だ。いつのまにか実子の正面、朱音派の群れのの後ろでトレイを持って立っていた。

 大志が女子に言った。


「ちょっとそこいいかい?」

「え? あ、えっと……ええ」


 群れの女子が食べかけのトレイを持って立ち上がり、テーブルの端に移動した。

 ああ疲れた、とばかりに中沢大志が実子の前に腰を下ろした。トレイの上にはもちろん美千代が拵えた豆腐入りのハンバーグが乗っていた。


「どう? 初石さん。そのお茶、美味しい?」


 と水を向けられ、実子は薄緑色に染まるコップを持ちあげ、大志の顔と見比べた。


「ええ。中沢さんのおかげね」

「そう! そうなんだよ!」


 中沢大志が嬉しそうに笑い、四角く大きな眼鏡を押し上げた。


「僕は若いころね、東京の水道局に勤めていたんだけど……」

 

 いつもの話が始まり、実子の傍らで朱音が顔を背けた。クスクスと漏れる群れの鳴き声からして口の端を下げて見せているのだろう。

 

 凄いわね、大したものね、あなたがいなかったら今も水は川から組んできていたのかもしれないわね、と心にもない賛辞を並べながら実子は食事を進める。機会を待っていた。話が途切れ、黒翁の噂を聞けそうな機会を。


「――そうなんだよね。みんなさ、僕に対して敬意が足りないと思うんだよ。だって僕が仕事をしていなかったら、日本の発展は十年――いや二十年は遅れてたんだからさ。いまこうしてみんなが呑気に暮らせるのも、その基礎をつくった僕のおかげなんだってことをさ、もっと自覚してほしいよ」


 そうね、と実子が相槌を打ったとき、同じテーブルにいながらにして、彼女は中沢大志と二人きりになっているような気になった。


「でもそれは、東京の、昔の話じゃない」

「――え? なんだい急に。僕の頑張りをないがしろにしないでくれないかな」


 急に機嫌を損ねた大志に、実子は言った。


「そうじゃなくてね、たとえばほら、いま学校で起きてるもんだいを解決したりしたら、みんな中沢さんの話を聞いてくれると思うの」

「……問題って? なにかあったかな?」

「ほら、黒翁の話。私、ちょっと怖くなっちゃって」


 話題に出した途端、朱音の群れが振り向き、中沢大志の眉間に深い皺が寄った。


「初石さんまでそんな話……くだらないなあ、くだらないよ。学校には監視カメラがいくつもあるんだよ? 本当にいるなら映ってるはずじゃないか。そんなの信じてるの頭の悪い女の子くらいだよ。初石さんは違うでしょ?」


 体質の発言に朱音の顔色が変わった。

 聞いた私が悪かった、と実子はトレイを手に立ちたくなった。けれど、立つ鳥跡を濁さずという。羊雲という閉鎖環境でわだかまりの種を残していけば後々の振る舞いに影響を及ぼす。


「あのね、中沢さん」


 実子は言った。


が怖がってるんだから、僕に任せておけって言っておけばいいのよ」

「……くだらないよ。くだらない。僕はそんなの見たことないからね」


 大志はムッとした顔で話を打ち切り、水道局時代の偉業を呟きながら食事を再開した。実子は朱音らに肩を竦めて見せてやり、群れの含み笑いを得てから、味のしなくなった料理を終えて席を立った。


 残る作業は食堂の二階で湯をもらうことくらいだった。

 普段なら朱音か美千代か、もしくは他の誰でも、連れ立っていくのが常ではあった。けれど、すっかり疲弊していた実子は時間をずらすべく自室で読書に耽った。


 午後十時。まだ雨が降り続いていた。天気予報は確認していないが、遠い夜空の様子からして明日も太陽は拝めそうにない。

 

 実子はため息まじりに入浴セットをトートバッグに詰め込み部屋を出た。

 廊下の照明はすでに落とされており、昼より重たい暗闇が伸びていた。

 窓を叩く雨音にどこかの部屋から漏れ聞こえてくる幽かな声が混じり、暗騒音として後ろからついてくる。


「嫌な感じね」


 実子は意識的に呟いた。

 怖い、と思っている自分がいると、確認したかったのかもしれない。

 黒翁は夜の校舎を歩くという。寮ではない。くだらないと憤慨する中沢大志の姿が脳裏に過った。


「嫌な感じ」


 また口に出す。

 どん、どん、どどん。

 そう足音が聞こえるという。

 どん、どどん、どん。

 舞い踊る足音なのだろう。

 

 ど、ど、ど、ど、ど、ど。


 重い震動音が規則的に鳴り響いていた。

 足音のようでもあり、なにかが壁にぶつかっているようでもあった。

 実子はシャワーだけで済ませて部屋に戻った。

 音は、廊下よりも一段と大きく鳴った。

 

 ど、ど、ど、ど、ど……ど。


 音が止むのと、実子が眠りに落ちるのは、どちらが先だったか判然としない。

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