4.それぞれの夜

日付が変わる少し前。

美咲はアパレル勤務を終えたあと、夜のバーでのシフトに入っていた。

カウンター越しの客たちは笑顔。けれど彼女の心は、冷たく沈んでいた。


(……今日は、早く帰らなきゃ……。)

スマホの画面には、隼人からの未読メッセージが溜まっている。


『まだ?』『もう帰れよ』『おまえ、男と話してんの?』『やめろって言ったよな?』


(もう、いい加減にして……。)

笑顔をつくり、声を張り、接客をこなす。

でも心の奥は、限界に近づいていた。



そのころ隼人は、部屋の中で缶ビールを開け、吐き捨てるように言った。

「……クソが……。」


部屋は薄暗く、テーブルの上には散らかった書類、空き缶。

テレビはつけっぱなし。

スマホを握る手が、震えていた。


(……帰ってこい。もう、いいだろ……。)

美咲の帰りが遅い。

分かっている。夜の仕事だ。

でも頭の中では、他の男の影がチラつく。


「……浮気……してんのか……。」


声に出した瞬間、感情が膨れ上がる。


「……ふざけんな……。」


壁を思いきり拳で叩く。

鈍い音が響き、表面がひび割れた。



マンションの廊下を歩く美咲の足取りは重い。

帰りたくない。でも帰らなきゃいけない。


(……もう、やめたい……。)


目の奥が熱くなる。


ポケットの中で鍵を握りしめ、エレベーターの前でふと視線を上げた。

ちょうど扉が開き、中から拓也が降りてくる。


「……こんばんは。」

「……こんばんは。」


少しの間、目が合う。

でも美咲はうつむき、何も言わずエレベーターに乗り込んだ。


(……なんで、あの人、優しい声出してくれるんだろ……。)


心がわずかに震えた。



部屋に入ると、隼人が立ち上がった。

「遅ぇだろ。」


「……ごめん、シフト終わらなかったから……。」


「何時だと思ってんだよ。」


「仕事だって……。」


「ふざけんなよ!」


ドン、と壁を叩く音。

美咲はビクッと肩をすくめる。


「……ほんと、浮気とか……してない?」


「してないよ……!」


「じゃあ何で遅いんだよ、何で連絡しないんだよ!」


手首をつかまれ、引き寄せられる。


「痛い……隼人……やめて……。」


「……俺のこと、好きだよな?」


「……うん……。」


「言えよ。」


「……す、好き……。」


「もっと。」


「……好き……。」


隼人は笑顔を見せ、額をくっつけて甘えるように言った。


「なぁ、美咲……もう、ずっと一緒にいような……。」


彼女の心は、完全に泣いていた。



上の階では、拓也が天井を見上げていた。

鈍い音がかすかに伝わってくる。


(……何だ、今の音……。いや、違う。関わるな。

でも、もし――。)


頭の中で、ありもしない妄想がぐるぐると駆け回る。

彼女が泣いている姿。

誰かに助けを求める声。

目を閉じても消えない。


(……ダメだ。関わるな。けど、けど……。)


手が勝手に、ドアノブへ伸びる。


(……動け。

今動けなかったら、たぶん一生後悔する。

俺だって、俺にだって、できることが――。)


ぎゅっと拳を握りしめ、立ち上がった。



一方、美咲の部屋では。

隼人の指が髪を撫で、顔を覗き込む。


「なぁ……抱いていい?」


「……うん……。」


力なく答える彼女に、隼人はにっこり笑った。


(……私、何してるんだろ……。)


涙が一粒、頬を伝った。


(……誰か、助けて……。)


心の奥が、初めて悲鳴を上げた瞬間だった。



そして、拓也の部屋の前。

男は立ち尽くし、目を閉じた。


(……いけ。

勇気を出せ。

……でも、もし間違ってたら……?

笑われたら……?

勘違いだったら……?

いい歳して、なにやってんだ、俺……。)


拳を握った手が、震えた。


(……でも、もし、今。

俺がこのまま何もしなかったら――。)


目を開け、息を呑む。


(……この手で、何も救えないまま、一生を終える気がするんだ。)


静かに、ドアを開けた。



――そして、夜はまだ、続いていく。

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