3.気づいてしまった隣
夜中の二時を回ったころ。
隼人の声が、また部屋に響いていた。
「ふざけんなよ……!」
ドン、と壁が揺れる音。
美咲はソファの端で、小さく体を縮めていた。
「浮気してねぇなら、何で電話出ねぇんだよ……。
夜の仕事なんて、男と話すだけじゃねぇだろ。知ってんだよ……。」
「してないって……。ほんとに、してない……。」
声が震える。
手首を、赤くなるほど強く握られる。
彼女の目が、少し潤む。
「……おまえは、俺のだろ……。」
顔を寄せ、泣き笑いのような表情で囁く隼人。
抱きしめた後、急に優しい声になる。
「なぁ、美咲……好きだよ……。なぁ、抱いていい……?」
美咲は、体がこわばったまま、小さくうなずく。
(……逃げたい。けど、逃げられない……。)
心の奥が、冷たい痛みに支配されていく。
⸻
上の階では、拓也がソファに座り、タバコを指先で転がしていた。
火はつけない。いつも、そう。
(……下の階、また音してる……。いや、気のせいか……。
でも、もし……ほんとに、彼女が困ってたら……?)
妄想と現実の境界線が、じわじわと滲んでくる。
(……まさか、助けに行くとか……?いや、馬鹿か俺。
それに、どこの誰だか分からないのに……。)
でも、頭の奥にこびりついて離れない。
エレベーターの中、あのとき美咲が見せた、疲れた笑顔。
夜の光の中で、ほのかに香ったシャンプーと香水の匂い。
「……っ……。」
思わず頭を抱える。
(何してんだ、俺……。寝ろ、早く寝ろ……。)
⸻
次の日の朝。
美咲は鏡の前に立ち、頬を叩いた。
「よし……大丈夫、大丈夫……。」
昨日のことは、なかったことにする。
毎朝そうやって立て直さないと、やっていけない。
キッチンには隼人がいた。
寝癖のまま、口に食パンをくわえ、スマホをいじっている。
「今日、夜は?」
「……夜シフト。」
「はぁ……。」
「……。」
「……わかった。帰ってきたら連絡な。」
「……うん。」
隼人は笑って、軽く額にキスをした。
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
美咲はそっと、家を出た。
⸻
昼、拓也は仕入れの準備で市場を回っていた。
仲卸の親父が、「兄ちゃん、こっち安いぞ」と呼びかける。
「はい、お願いします。」
笑顔を作ってはいるが、頭の中はずっと、夜のマンションのことが渦巻いていた。
(彼女、無事なんだろうか……。いや、関係ない、関係ないってば……。)
でも胸の奥が、ざわざわして止まらない。
⸻
夜。
バーのカウンターに立つ美咲。
笑顔を作り、接客をこなす。
でもふと、グラスを拭く手が止まる。
(……このまま、このまま一生、この関係のままなのかな……。)
目の奥がじんと熱くなる。
⸻
深夜。
マンションの廊下。
美咲が帰宅する足音。
拓也がちょうどゴミ出しに出たところで、また鉢合わせる。
「……こんばんは。」
「……こんばんは。」
一瞬、視線が合う。
そして、二人とも、気まずそうに目を逸らす。
でも、美咲の唇が、かすかに震えていたことに、拓也は気づいてしまった。
(……泣いてた……?)
彼女の背中が遠ざかっていく。
拓也の心臓が、早鐘のように打つ。
(関わっちゃいけない。けど、放っておけない。
俺は、どうすればいい……?)
⸻
部屋に戻った美咲は、ドアを閉めた瞬間、壁にもたれかかって座り込んだ。
「はぁ……。」
スマホが震える。
『今どこ』『なんで遅い』『おまえさぁ』
(もう……いや……。)
指先が、小さく震える。
そして、不意に思い出す。
エレベーターの中での、あの男の、あたたかい声。
(……助けて……。)
心の奥で、初めて、誰かに手を伸ばしたいと思った。
⸻
上の階、拓也は何度目かのため息をつき、天井を見つめていた。
(……俺なんかに、何ができる。
ただの、上の階の、冴えないおっさんだ。
でも……でも……。)
手が、ドアノブに伸びかける。
(もし、今、あの子の部屋で、何かが起きてたら……?)
心臓がドクドクと音を立てる。
(……動け、俺。
動け……!)
ギュッと拳を握りしめ、立ち上がった。
⸻
――このとき、三人の心が、同じ夜に重なり始めていた。
そして、それはもう、後戻りのできない運命の始まりだった。
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