2.はじまりの、音

午前十一時。

美咲は昼のシフトに入るため、アパレルショップに立っていた。

マネキンにスカーフを巻き、鏡越しに自分の顔を見る。

化粧は完璧。髪型も決めた。でも、目の奥が、少しだけ疲れている。


「西野さーん、今日の新作これなんだけど、値札確認お願いしていい?」

「はーい!」

明るく笑顔をつくって後輩に応える。仕事中はいつもそう。

だからお客さんにも、「元気で可愛い子」と言われる。

でも心の奥では、(早く終わらないかな……夜、また顔合わせるのやだな……)と、小さく思っている。



一方そのころ、建設現場。

鋼材の上を器用に動く川村隼人。

「おい、隼人ー、そっち締め終わったか?」

「おーう、あと少し!」

現場仲間と笑い合いながら、汗をぬぐう。

鍛えられた腕と引き締まった体。昼の顔は、明るく、頼もしく、男らしい。


でも、スマホの通知が鳴ると、表情が曇る。


(……美咲、今どこだ?仕事か……いや、昼シフトか……。)

LINEの未読表示を何度も確認する。

仲間が肩を叩き、

「おまえさ、彼女にゾッコンか?また見てんのかよ~」

「……別に……。」

隼人は照れたふりをし、そっけなくスマホをポケットに戻した。


(ほんとは、全部知ってたい。今、何してるか、誰といるか……。)



夜、拓也は居酒屋のカウンター越しに客の笑い声を聞いていた。

「マスター、これもう一本!」

「へい、ありがとうございまーす。」

笑顔でビールを注ぎながら、心は少し空虚だった。


(あの子、今日も夜働いてるのかな。いや、何考えてんだ俺……。)


閉店後、いつものように一人で片づけをし、終電間際の電車に揺られる。

体は疲れている。でも心の奥が、ほんの少しざわついている。

エレベーターに乗ったときの、あの小さな吐息、スマホに向けた八つ当たりの声が、妙に耳に残っている。



夜十二時すぎ。

美咲はバーの裏口から出て、ふっとため息をついた。

(……はぁ……帰りたくないな……。)


スマホを見ると、やはり未読が十数件。

『まだ?』『いつ帰る?』『何やってんの?』『男?』『ふざけんなよ』。


(うるさい……ほんとに……。)


ドアを開け、マンションのエントランスに入る。

ふと、エレベーターに誰かいる気配。

ドアが開くと、拓也とまた目が合った。


「あ……。」

「……こんばんは。」

思わず、拓也が小さな声で言った。

美咲は驚いたように目を見開き、軽く会釈して中に入る。

無言の時間。

密室に二人きり。

スマホが震える。

「……っ……。」

美咲は操作をせず、ただ画面を伏せた。


「……疲れてるみたいですね。」


不意に拓也が口を開いた。

美咲は、きょとんと彼を見た。


「……あ……はは……バレてます?」


「いや……。すみません、余計なこと……。」


「いえ、そんな……。」


ふ、と短く笑い、美咲は小さく頭を下げた。

心の奥に、ほんの小さな何かが灯る。

でもそれは、恋じゃない。

ただ、癒しのような、一瞬のすき間。



部屋に戻ると、すぐに隼人の声が飛んできた。


「おせーじゃん!」


「……仕事だって言ったでしょ。」


「夜の仕事とか、もうやめろよ。」


「やめろって……生活費どうすんのよ。」


「俺が稼ぐ。」


「嘘ばっかり……。」


「は?何だよその言い方……。」


隼人は、ぐっと美咲の腕を引き寄せ、首筋に顔を埋めた。


「……おまえは俺のだろ。」


「……やめて、汗くさい……。」


「いいじゃん、ちょっとくらい……なぁ……。」


(やめて……ほんと、やめて……。)


心が、少しずつ冷えていく。



上の階では、拓也がまた天井を見つめていた。


(また……揉めてるのか……。声、聞こえる……。)


そっと耳を澄ます。

心臓が、軽く跳ねた。

(何してんだ俺。知らない人の、知らない生活なのに……。)


でも、どうしても、気になってしまう。

あの、エレベーターの中で見た、笑顔の奥の疲れた瞳。

彼女の「助けて」なんて一度も聞いてないのに、勝手に想像してしまう。


(……もし……俺だったら……。)


自分の中の妄想が、またひとつ広がる。

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