その手を伸ばしたのは、僕じゃない
西川 涼
第1章 個室
1.密室の向こう側
「はぁ……やっと終わった……。」
拓也はカウンターの椅子に深く腰掛け、額の汗をぬぐった。
今夜も閉店作業はひとり。スタッフの若いやつらは、ちゃっちゃと帰ってしまった。
テーブルの上には、片づけ残しの伝票。壁の時計は午前0時を回っていた。
「……今日は、なんかやけに疲れたな。」
誰に言うでもなく、独り言を呟いて立ち上がる。
椅子をカウンターの内側に戻し、レジ締めを確認。現金が合っているのを見て、小さくうなずく。
「よし、帰るか。」
店の灯りを落とし、外に出た瞬間、少し湿った夜風が髪を撫でた。
タバコに手を伸ばしたが、口にくわえただけで火をつけず、そっとポケットに戻す。
「……この時間だし、いいか。」
軽い足取りで歩き出す。夜の街は静かだった。
⸻
「もうっ……なんでこんな……!」
美咲は夜のバーを出て、乱暴にスマホを握りしめていた。
画面には隼人からのLINEがびっしり。
『どこ?』『なんで既読つかない?』『男と一緒?』『ふざけんなよ』『何してんの?』
「もう、いい加減にして……。」
駅前のコンビニに立ち寄り、レジに水を出す。
「……あっ、すみません、ポイントカード……あ、いいです……。」
小さく頭を下げ、店を出た。
彼氏、隼人とはもう三年。
最初は優しかった。寂しがり屋で、ちょっと甘えん坊で、かわいいなって思った。
でも最近は――違う。
⸻
マンションのエントランスに着き、エレベーターのボタンを押す。
「……はぁ……。」
扉が開き、乗り込み扉を閉めようとした瞬間、奥に人影が見えた。
「……あ、すみません……。」
無意識に会釈すると、中にいた男性――拓也が、「どうぞ」と小さく笑った。
疲れた顔、くしゃっとした髪、地味なシャツ。
(上の階の人?なんか……年上っぽい……。)
エレベーターの密室、沈黙。
美咲のスマホが震える。着信画面。
「……もう……!」
美咲は苛立ちを隠さず、スマホを握りしめた。
「……うるさいんだよ、ほんと……。」
声が漏れる。
拓也は思わずそちらを見て、慌てて目を逸らす。
(え、なに……彼氏とケンカ中……?いや、関係ないし……。)
顔が熱くなる。なぜだ。
ただの住人だ。関係ない。
でも、耳が勝手に美咲の小さなため息を拾ってしまう。
⸻
「……っ……!」
美咲はエレベーターを出ると、ポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。
中は薄暗い。
「……帰ったよ……。」
呟くと、奥の部屋から声が返る。
「遅ぇじゃん。」
隼人だった。
「仕事だって言ったでしょ。」
「はぁ?連絡ぐらい寄こせよ。」
「忙しかったの。客に引き止められたり――」
「じゃあなんで既読つけないの?」
隼人が、リビングのソファから立ち上がってくる。
グレーのスウェット、ぼさぼさの髪。ビール缶を持ったまま。
「……なんで……っ!」
美咲が口を開きかけた瞬間、手首をつかまれた。
「――っ!」
「浮気とかしてないよな?」
「なっ……してないってば!」
「ならちゃんと返事しろよ、ったく……。」
隼人は、急に顔を緩める。
「あー、もう……寂しかったんだよ……。」
美咲の肩に顔をうずめ、甘える。
「やだ……汗くさい……離れて……。」
「いいじゃん、少しぐらい……。」
(もう……やめてよ……。)
美咲の心は、静かに悲鳴をあげていた。
⸻
そのころ、拓也は上の階のベッドで、天井を見つめていた。
(……なんか……下の階、さっきから物音……聞こえる……?いや、気のせい……だよな……。)
耳を澄ませる自分が、滑稽に思えてくる。
(だって、俺なんかが関わったところで……何もできない……。)
「はぁ……。」
ため息をつき、目を閉じた。
(……それにしても、あの子……可愛かったな……。いやいやいや、何考えてんだ俺……。)
笑ってしまいそうになり、慌てて布団をかぶった。
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