心が泣き出すその前に
涼風紫音
心が泣き出すその前に
皆月春奈ちゃんのことが好きだ。いつの間にか、私如月弥生は、春奈ちゃんを一途に好きになっていた。頭が良くて運動もできて、そんな月並みな理由ではなかった。
男子生徒の人気ナンバーワンで、女子生徒の間ではこっそりファンクラブができるほどの、高校生とは思えないプロポーションも、長いまつげと吸い込まれそうな青味がかった瞳が印象的な、映画に出てきそうな整った顔立ちも、やはりどれも理由ではなかった。
それらはもちろん春奈ちゃんの魅力なのだけど、つまるところ理由などどうでも良かった。いつから好きになってしまったのか、どこを好きになったのか、後から理由を見つけることはいくらでもできたけれど、どれも嘘っぽいなと感じていた。
今も先生の質問に、てきぱきと要領よく答えている春奈ちゃんの後ろ姿に、机に頬杖をつきながら見とれていた。誰も持っていない、真似することもできない圧倒的存在感。美しいでも恰好いいでもない、春奈ちゃんとしか言いようのないオーラ。
誰もが惚れてしまうのではないだろうか、そう思う自分のことを思うと、なんて分不相応なんだろうと思う。平凡な顔、平凡な身体、平凡な成績。絵に描いたような、どこといって特長もアピールポイントもない私なんて、春奈ちゃんは気にもしないに違いない。
春奈ちゃんへの恋い焦がれる想いと、赤点な自己肯定感が綯い交ぜとなって、つい視線をそらして教室の外を見る。空は澄み渡った、まさに青春そのもののような青さで雲一つない夏晴れ。それに比べて私の心は雲どころか土砂降りの梅雨だ。叶わない感情が行き場を失い、今日も胸を強かに打ち付ける豪雨となって、私を翻弄していた。
「以上です」
春奈ちゃんの透き通った声が教室に響いた。それを聞いた先生もうんうんと頷きながら、「全員が皆月さんのようにすらすら答えられるようになると、先生も鼻が高いんだけどな」と冗談とも真面目ともつかない顔で教室を見渡していた。余計なお世話だと思う。誰も春奈ちゃんのようにはなれないし、なれるわけがない。特別なんだから。
声をかけたいと願いながら行動に移せないまま、もう季節は一巡していた。春奈ちゃんのことを好きだと知ってしまってから、すっかり一年が過ぎ去っていた。もうすぐ高校三年になる。大学に行くとしても、決して同じ学校には行けないだろう。そうなれば、もう後ろ姿を眺めることもできなくなってしまう。日が巡り季節が過ぎるたびに、焦慮が募っていった。
(いっそ玉砕覚悟で思いをぶつけてしまった方が良いのかな)
そんなことも思わないでもなかったが、玉砕する自分を想像すると、その一歩は足が竦んで踏み出せなかった。好きと伝えることもできず、そう知られることもなく、この思いはただ私の中でひっそりと死んでいくのだろうか。それは寂しいというより、とても怖かった。こんな思いを抱えたまま生きていくことができるのかとすら思った。玉砕するのも怖かったが、それと同じくらい耐えられないと思った。
チャイムが鳴り今日の最後の授業が終わった。先生はすでに教室から姿を消し、部活やバイトまでのちょっとした時間は、生徒たちの青春そのものだった。楽しそうに、恥ずかしそうに、あるいは誇らし気に話しているクラスメイトを見るたびに、私はちっぽけで存在感が無いと感じる。
春奈ちゃんは手が届かない存在、クラスメイトに交じって青春を謳歌することもできない私、ウジウジと悩んでいることが馬鹿らしくもなるけれど、自分の気持ちに嘘はつけない。誤魔化しようがない。授業中も、放課後も、寝るときでさえ、頭は春奈ちゃんのことばかり考えていた。そんな日々をもう一年も続けてきたのだから、勇気がない自分が惨めで気が狂いそうになる。
さっさと教室を飛び出して帰ろう。そう思った矢先、すっかり胸の刻み込んでしまった声がした。
「如月さん」
なにが起きたのかまったくわからなかった。如月さんが私のことだと気づくまでの時間が一瞬だったのか数分だったのかそれ以上だったのか。さぞ間抜けな顔をしていたに違いない。
「如月さん。聞こえて?」
春奈ちゃんが私を呼んでいる。今までそんなこと一度もなかったのに、よりによってこんなに感情がグチャグヤにかき乱されているときに……。思いもよらぬ声に、頭はパニックで真っ白になる。
なんて答えればいい? どう話せばいい? それよりどんな顔をすればいい? 心の中で呟いてももちろん誰も答えてくれない。思わず俯いた私は耳朶まですっかり赤く染めあがり、この場から逃げ去りたい衝動に駆られていたけれど、まるで手足が自分のものではないようにまったく動けずにいた。
「聞こえているんでしょ。ちょっと生徒会室まで付き合って」
訳も分からず、何を言われているかも頭に入ってこないままの私の手を、春奈ちゃんが掴んで立ち上がるよう促してきた。いまこの光景をいったい何人のクラスメイトに見られているのかと思うと、恥ずかしさを通り越して血の気が引いていく。
上目がちに少しだけ顔を上げると、そこには春奈ちゃんの青味がかった目がまっすぐと私を見据えていた。意思が強く、有無を言わせないような、力強い表情が目の前にあった。鼓動が早鐘のようにドクンドクンと脈打っていることを悟られないよう、できるだけ感情を押し殺して、消え入りそうな声を絞りだす。
「……はい……」
そう返事をして再び俯いた私と、私の手をしっかりと掴んでひとときも力を緩めない春奈ちゃんは、好奇の視線が入り乱れる教室を後にした。
生徒会室は、春奈ちゃんと私の二人だけだった。そういえば春奈ちゃんは生徒会に所属していたのだとやっと思い出した私に「生徒会は休みだから、今日は他に誰も来ないし、鍵も内側からかけた」と春奈ちゃんが告げた。二人きりの密室。それを考えると、鼓動はどんどん早くなり、胸が苦しくなる。
「そこに座って」と促されて部屋の隅の椅子に腰を下ろしても、私はまだ俯いたままだった。
「何の用だか、わかるよね?」
座った私を見下ろしながら、春奈ちゃんは強い口調で問いかけてきた。まったくわからなかった。
私が何をしたんだろう? 生徒会に呼び出されるようなことはしていないはず……あるいは何かやらかしてしまったのだろうか? 状況が呑み込めないままの私の頭は、まるでポンコツの古いパソコンみたいに、なけなしの記憶をかけ集めようと鈍く動き始めたものの、心当たることは……たぶん……ない……はず……。
「如月さん。あなた……ひょっとして鈍いの?」
春奈ちゃんは再び、少しイライラした顔で尋ねてくる。それは、春奈ちゃんと私とでは頭の出来も全然違うから、それを鈍いというならその通りだと思ったけれども、そう答えるのもなんだか気が引けた。しかし、何が言いたいのかは、さっぱりわからなかった。
「こういうこと、私の口から言わせるつもりなんだ」
いつも教室で見せている顔ではない、どこか覚悟を決めたような顔で、そう呟くと、今度は春奈ちゃんが俯いた。
なんだろう? 私は春奈ちゃんに何を言わせようとしているのだろう? そもそも春奈ちゃんは何が言いたいんだろう? 今までの頭の鈍さが吹き飛び、突然ジェットコースターのように思考が乱暴に動き出した。このままではいけないことだけは悟っていた。問題は「何がいけないのか」がちっともわからないことだった。必死に考えても、それは見つかりそうになかった。
「わかった……じゃあ……私が言ってあげる」
そう言いながら改めて私を見据えた春奈ちゃんの顔は、とても真剣で、少し悲しそうで、他にも思いつかないような感情が見え隠れしていた。
「如月さん……弥生さん……あなた……、……私のことが好きなんでしょ」
あまりの不意打ちに心臓が止まったかと思うほど、最後の言葉は私を脳天から打ち抜いた。ずっと隠してきたはずなのに、なんで……、なんで春奈ちゃんがそのことを知っているんだろう? そして私はなんてことを言わせてしまったのだろう。
恥ずかしさと情けなさと、このあとに訪れるに違いない失恋の喪失感への恐れで、全身の毛穴が開き、すっと体が冷えていくのがわかる。もう後には引けない。嘘もつきたくない。一年間、私が言いたくて言えなかったことを、春奈ちゃんが宣告してきたのだから、これ以上逃げようがない。
「……うん……ずっと好きだった……」
絞り出し、言葉にすると、それはずっと重く感じられた。その重さから私が逃げていたのに、春奈ちゃんに言わせてしまった。そんな気後れから、思わず過去形で答えてしまった。それを見逃す春奈ちゃんではなかった。
「だった? だったじゃない……好きです、でしょ?」
私の思いを、心の中を、なんでも見通しているみたいに、春奈ちゃんが訂正した。その通りだ。「だった」じゃない、「いまも」だ。でも、それを言ったとして、その先に何が待っているのか。ただ惨めな結末なんじゃないか。そう思うと、心は既に挫けそうで、体はすっかり脱力し、頭の中で白旗を上げていた。
「そう、今も好きです! 春奈ちゃんのことが好き! ずっと、一年前から、春奈ちゃんだけを見ていたの! だからなんなの⁉」
もう破れかぶれだった。相手に問い詰められて、逃げ場がなくなってようやく出てきた言葉は、告白というよりもむしろ降伏宣言だ。仕方なく、他に言葉が無く、それ以外に応えようがないから出てきた言葉。本当のことだけど、春奈ちゃんが苛立つのも、いまはよくわかる。こういうことは、結果がどうなろうと、ちゃんと私から言うべきものなのだから。
「それで……どうしたいの?」
とても冷静に見えて、どこか挑戦的な目で、私の退路を一つずつ絶ってくる春奈ちゃんを、少し意地悪だと思った。私が最初に言わなかったのが悪い。だからと言って、最後まで全部言わないと駄目なのだろうか。玉砕ってまさにこういうことなんだろうな、と妙に冷静になった頭が、言葉の意味を思い出していた。
「……付き合いたい……春奈さんのこと……好きだから……」
恥ずかしさも惨めさも、春奈ちゃんのことが好きだという事実が乗り越えて、そう口にする。
「でも……私も女だし……女同士って……」
一年間好きだと告げられなかった私の中の一番の理由がこれだった。春奈ちゃんも私も女。女同士の恋愛は、漫画やアニメ、ドラマや映画の話で、それ以上でも以下でもないと、私は考えていた。女同士だから、断られるに決まっている。そう思いたくないから、自分を卑屈に考え、身の丈に合わないからと、いろいろな理由を作っては、それに向き合うことから逃げていた。
そんなことはとっくの昔に私自身気づいていたけれど、春奈ちゃんに嫌われたくないから、その一線は超えない方が良いとさえ思っていた。たとえそれが言い訳だとしても。
「女同士だから何? 如月さんは、相手が男か女かで好きかどうか変わるの?」
「え?」
春奈ちゃんの意外な言葉に一瞬耳を疑った。「男か女かで好きかどうか変わる」なんて、考えたこともなかった。たまたま好きになり、思い続けた相手が春奈ちゃんだっただけで、春奈ちゃんは春奈ちゃんだ。
仮に春奈ちゃんが男だったら、違ったのだろうか?
回し車をくるくる回すリスのように、空回る気持ちがキリキリと胃を痛めつける。
「私は気にしないけどさ」春奈ちゃんはそういうと、すっと距離を詰めてきた。
春奈ちゃんの顔がどんどん近づいてくる。思わず腰が引けそうになる私を、春奈ちゃんが手を背に回して抱え込んだかと思うと、すっと体が持ち上がり、唐突に口を塞がれた。
暖かくて優しい体温が伝わってくる。
私、キスしてる!
何が起きているのか理解する前に、体は自然に動いていた。春奈ちゃんの腰に右手をまわし、左手で頭を抱える。
キスなんてしたことはなかったけれど、何度も夢に見てきたはずのそれは、ずっとずっと気持ちよい、二度と手放したくない感覚だった。春奈ちゃんを包んだ手は、すこし震えていた。ぬくもりが制服越しにじんわりと伝わってくる。
ずっとこうしていたかったけれど、そうするわけにもいかず、春奈ちゃんがすっと両の手を伸ばして、磁石のようにくっついた二人の体を強引に離した。
「私の答え、受け取ったよね?」と春奈ちゃんは勝ち気な微笑みで念押しした。
「も……もちろん……」
しどろもどろでどうにか答える私を見て、春奈ちゃんは表情を崩し、今度は優しい顔でこう言った。
「言いたいやつには言わせておけばいいの。昔から言うじゃない。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえって」
春奈ちゃんにそういわれると、ウジウジ悩んでいた自分がなんだか馬鹿みたいに思える。二人の関係は、誰かが何かを言っても壊れない、そう強く確信できた。それに、あまりに古い言い回しが突拍子もなく出てきて意表を突かれたことで、そんな感慨はいっそうどうでもよく思えた。私はとても馬鹿だ。
「それに……私は一年間待ったんだからね……あと、私に先に言わせたのは、貸し一つだから」
そう言うや否や、春奈ちゃんは、さきほどの荒々しい情熱的なキスとは打って変わって、ゆっくりと確かめるようなそれで、もう何も言わせないとばかりに念入りに私の唇を塞いだ。春奈ちゃんの頬には一条の涙が伝っていた。
心が泣き出すその前に 涼風紫音 @sionsuzukaze
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