邂逅②
「ちょうどよかった、東雲。この子、相手してやってよ」
そばにいた白衣の男が軽く促すと、名前を呼ばれた男は、眉を上げ、面白そうに口の端をゆるめた。
その様子を横目に見ながら、汐見は何も言わずに彼女の横をすり抜けるように歩き出す。
けれど、ほんの数歩進んだところで、ふと足を止めた。
見上げると、何かを言い残すでもなく、瞳が静かにこちらを捉えていて。
目があった次の瞬間、彼はふいに腕を伸ばした。ぽん、と軽く頭に置かれた手のひら。撫でるわけでも、掴むわけでもない。ただ、そこに触れてみただけ。そんな、確かめるような動作に、思わず瞬きを重ねる。
意味を理解できずに戸惑いながらも、おとなしくしていると、そんな反応を見た汐見の肩の力が抜け、ふっと目を細めた。そしてほんの少し、眉をしかめるような表情になり、息を吐く。
(──なにやってんだ、俺)
言葉にはしなかったけれど、そんな心の声が聞こえたような気がした。
彼はすぐに手を離すと、何事もなかったようにひらひらと手を振る。
「じゃあね、はるちゃん」
言葉は軽やかで、風のように流れていく。
汐見はまるで存在が溶けたように、すっと部屋を去っていった。
扉の閉まる音が、2人を残していく。東雲は静かに目を細め、呆気に取られたような表情の彼女をじっと見つめている。
しかしはるの意識はまだ、そのぬくもりに囚われたままだった。
まるで、幽霊でも見たかのような、存在を確かめているような、とにかくどこか不思議な触れ方だった。
それが何を意味しているのかはわからない。けれど、ほんの少し、どこか運命の入口に立ったような、妙な胸騒ぎがしていた。
⸻
微かに残る紙の匂いと、吹き込んだ風の余韻で、室内の空気はまだゆるやかに揺れていた。窓際の鈴が、小さく、けれど絶え間なく音を鳴らす。その澄んだ響きが、外の世界とこの部屋をつなぎとめている。
「それで、何か用があってきたのかな?」
白衣の背中を見送りながら、しばらくその場に立ち尽くしていたが、静かに問いかける声に、ふと我に返ったように目線を移した。
ゆったりとした口調。細身の眼鏡の奥で笑ったように揺れる目は、人懐っこさと、どこか観察するような静けさを併せ持っている。
白シャツに柔らかな色のカーディガンを重ねた彼の佇まいは、大学生というより、研究者のような雰囲気。静かな書斎が似合いそうだ。
はるは小さくうなずいて、戸惑いながらも、なるべく言葉を探すように続ける。
「その、怪奇現象とか……そういうの、少し知りたくて」
自分で言いながら、なんて曖昧な動機だと思う。それでも、東雲は目を細めて、ふんわりと笑った。
「なるほど。では、よければ座って」
向かい合うように置かれた、少しくたびれたソファを示す。はるは小さくお礼を言って、ぎこちなくそこに腰を下ろした。わずかに軋んだ音がして、窓からは、先ほどよりも穏やかな風が吹き込んでくる。
カーテンがふわりと揺れて、曇りかけた空に一羽の鳥が横切っていった。講義を終えた学生たちのざわめきが遠くに響き、ときおり笑い声が風に乗って校舎の壁を反射している。
けれど、ここだけはそんな喧騒から切り離されたように静かだった。
「申し遅れましたね。オカ研、正しくは民俗学研究部ですが。部長の東雲です」
「民俗学……?」
はるは小さく首を傾げ、少し考えるように言葉を返した。
その様子に、ええ、と頷いて説明する。
「その土地の風習や信仰、故事、伝承などの分析をしていますよ」
はるは感心したように声を漏らし、部屋の中をゆっくりと見渡す。書棚や掲示物、そして開きっぱなしの分厚い資料。初めて入る空間なのに、どこか見慣れた風景のよう。
「あ、1年の──」
思い出したように名乗った瞬間、部屋の中を風がつよく通り抜けた。
その拍子に、鈴の音が響く。
不思議なほど澄んだ音が、はるの声をやわらかくさらっていく。
「はるさん」
聞こえなかったかもしれないと、もう一度口を開くまえに、東雲は静かにそう呼びかけて、にこやかに目を細めた。
差し出された手を、ゆっくりと握りながら、はるも小さく笑う。
窓の外、薄曇りの空の下で木の葉が揺れ、どこか遠くで、また小さく鈴の音が響いたような気がした。
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