思考する③
エントランスでカードキーをかざす。
電子錠が解除される音が響く。
午後のマンションは、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。人の気配も薄く、どこか現実味のない静けさが漂っている空間を、慣れた足取りで進んでいく。
206号室──自分たちの部屋の前で、何かに気づいたようにぴたりと動きを止める。
視線が、自然と下の方へと引き寄せられた。
壁との隙間近く。ほんの少しの範囲に、浅い傷が見えた。
はるはしゃがみ込み、指先でその部分をなぞる。一筋じゃない。
何度も、何度も、同じ場所を──まるで、必死に爪で引っ掻いたかのような、荒く不規則に刻まれた傷跡。
背筋を、冷たいものが這い上がってくる。
血の気が引き、指先がじわじわと震えはじめる。心臓の鼓動が、鼓膜の内側を叩くように早くなる。
あの音。この痕跡、間違いない。
引っ掻く音を聞いたのは、最初のループだけ。二回目は違った。インターホンが鳴っただけだった。
だから、今回も何もないはずなのに。
「……つまり、どういうこと…なの、」
切羽詰まったように、口から漏れた声は、ひどくかすれていた。それでも吐き出さずにはいられなかった。
記憶の底から浮かび上がってくる情報の断片。図書館で読み漁ったあれこれが、走馬灯のように脳裏をよぎる。
──タイムリープ。
過去の自分に、未来の意識が乗り移る。
それが、一般的な"ループ"の定義。
ならば、世界そのものは変わらないはずだ。
でも。
今、目の前に──こんなにも確かな痕跡が、残っている。
「……まさか」
言葉の奥に、わずかに滲む拒絶。
こんな仮説、認めたくない。けれど、脳は冷静すぎるほど冷静に組み立てを始めていた。
"この世界ごと、巻き戻している"
意識がくらむ。
現実味のない恐怖が、じわじわと足元から這い上がる。
どさり。
無意識のうちに、肩から滑り落ちたバッグが床に落ちる。その音にさえ気付かないほど、ただ、思考の渦のなか、はるは立ち尽くしていた。
しばらくその場で呆然と立ち尽くしていたが、何かを掴むように壁に手をつき、重たい足取りで部屋へ入る。
ソファに身を沈め、膝を抱えるようにうずくまる。カーテン越しに射し込む夕方の光が、部屋をぼんやりと染めていく。
──どうしたらいい。
こんなこと、ひとりでどうにかできる話じゃない。
でも、つかさには言いたくない。
心配をかけたくない。何より、今はまだ、何も確証がないから。
すべてを思い出したわけじゃない。
なぜ記憶が抜けているのかも、まだわからない。
あの夏、何があったのか。
なにが原因で、巻き戻す力を手に入れて、一体いつから、何度やり直してるのか。
不確定要素が多すぎて、思考がまとまらない。
問いが頭の中で、濁った水面のようにぐるぐると広がっていく。無意識にスマホを手に取る。
タイムリープ 巻き込まれたら どうしたらいい
無意味に思える言葉を、ただ投げつけるように打ち込んでいく。結果が並ぶ。
きっと、答えなんてない。
──でも、なにか掴みたくて。
一番上に出てきた質問箱のページを開いて、指先でなぞる。
「タイムスリップしたい」
「過去に戻りたい」
「やり直したい」
そんな言葉たちが画面を流れていく。
願望の羅列。誰かの、どこかの、誰にも届かない祈り。
非現実的にまみれた画面を、無意識にスクロールしていく。
現実味のない単語に目が慣れていく中、ふと、ある文字列に視線が止まった。
──オカルト、超常現象、非科学的。
指が止まり、視線が少し遠くなる。
記憶をたどるように、目を細めた。
(……うちの大学にこんなサークル、あった気がする)
確かに、そんな話を聞いたことがあった。
怪奇現象や民間信仰を研究している、よくわからないサークル。
時々、掲示板に妙な張り紙をしていた気がする。
視線がスマホから外れ、空間の向こうを見つめる。
一瞬、画面の向こうから誰かが覗いていたような、そんな錯覚がした。
ごく微かな違和感。
それが、まるで胸の奥に火種のように灯っていた。
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