聞いてみようか

汐見は資料の束を整えると、その手を止めることなくスマホを取り出し、迷いなくその番号をタップした。


『……あ、東雲?今どこ?』


電話口の向こうからは、しばらく雑音と間延びした声が返ってくる。


『いま?大学にはいないですよ』

『だろうな。どこいんの?』

『さあ。流れに身を任せてる感じなんで。たぶん夕方くらいには、そっちにたどり着くんじゃないですかね』

『……たどり着くって、あんたな』


呆れたように笑いながら、汐見はスマホを耳から離して、一瞬をつかさに向ける。


「だってさ。行動が風まかせすぎる」


つかさは片眉を上げて、どうしろと?とでも言いたげな表情を浮かべたが、何も言わずまたキーボードに手を滑らせる。


『どこにいんの、ほんとに』


手元のファイルをパラパラとめくりながら、スマホを肩と頬で挟んで、器用に電話を続けている。机の上に並んだ付箋の色を目で追い、いくつかの順番を指先で入れ替えていく。


ちらりと壁の時計を見やると、針は2時半を少し過ぎたところで。


外の光はまだ柔らかく、窓のブラインド越しに午後の気配を静かに落としていた。


『……あ、でも今日は風が南寄りなんで。もしかしたら逆方向に行くかも』

『そんな信憑性のない情報信じられんわ』


結局いつもの調子か、ともはや慣れた様子で鼻を鳴らし、ペンを取る。

メモの隅に印をつけていく。


隣では、つかさが静かに画面に集中している。

聞いているのかいないのか、微妙な距離。


『何か要件でも?』

『話聞きたいってやつがいてさ、気が向いたら相手してやって』


冗談めかしてそう言いながらも、手元はせわしなく動いたまま。

資料を繰り、書き込みを足し、机の上は相変わらず整然としながらもどこか雑然としている。


どこかバラバラなのに、妙に全体が今の空気に馴染んでいた。


『はーい。運命の出会い、楽しみにしてます』


ブツッという電子音とともに通話が途切れ、汐見はスマホを放り出すように机に置いて、小さく息を吐いた。


「あいつ、なんでああなんだろな」

「おまえと似てるけどな。自由なところは」

「否定できないのが腹立つな〜」


椅子の背もたれに軽く体を預けて、汐見はゆっくりと椅子を回した。半ばいたずらのように、つかさのパソコンの画面を覗き込む。わざとらしく顔を近づけると、つかさがふ、と笑う。


「なんだよ」


汐見は肩をすくめて答えにならない返事を残すと、目の前の書類を一枚つまみ上げ、再び手を動かし始めた。


時間は静かに流れていく。



机の上に放置していたスマホから、新たな通知が灯る。東雲からのメールだった。


『2年を向かわせますよ』


たった一行の、無駄のない、あっさりとした文面。


「2年が来るらしいよ」


画面を指先でなぞりながら言うと、椅子の背に背中を預けて、ほんの少し体を反らせた。


張りつめた静けさはなく、ただ午後の気怠さが部屋の空気に溶け込んでいる。


隣から、つかさが肩ごしに視線をよこす。


「知ってるやつ?」

「んー、たぶんあの2人だろうな」

「……そいつらも変わってる?」

「いや、東雲ほどじゃないよ」


つかさは口の端をわずかに上げた。ちいさく鼻を鳴らして、それきり、視線を画面に戻す。


沈黙が落ち着いたリズムで訪れる。


画面の光が頬の陰をやさしく照らして、部屋の照明よりも少しだけ明るい色を加えていた。


「どんなやつら?」


不意に投げられた言葉に、汐見は視線を上にあげ、少しだけ考えるふりをしてみせた。


「んー、猫二匹、ってかんじ」


つかさの指が止まる。

画面を見つめたまま、少しだけ目を細めた。


「…なるほど?」


その口ぶりは、まるでさっぱりわからないとでも言いたげで。何も掴めていない様子が滲んでいる。


汐見は口元に笑みを浮かべて、軽く背を丸めると、再び椅子を引き寄せて画面に向き直る。


「ま、会えばわかるよ」


そう軽く笑って、カタカタと静かにキーを打ち始める。


つかさは手に取ったペンをくるりと回しながら、ふと窓の外に視線を移す。雲が少し動いて、光が斜めに差し込んできた。


何かが、まだ輪郭を持たずにそこにいる。気づかないふりをしているのか、それとも、まだ形になっていないのか。そんな時間の中に、午後の陽がじわじわと伸びていた。


研究室には、また沈黙が戻っていく。

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