サンブンノイチ

渡貫 真琴

サンブンノイチ

 鈴木拓馬は手渡された紙を見てぽかんと口を開けていた。

 彼の前にはくたびれた様子の老婆が喪服を着て座っている。

 彼女が差し出した手紙には、たった一文『サンブンノイチ』と書き記されていた。

「これは一体……?」

 拓馬が老婆に尋ねると、老婆は萎縮したように頭を下げた。

「すみません、私にも良く分からないんです。

 鈴木さんになら分かるとだけ封筒に書いていました」

「ほかに遺書のようなものはなかったんですね?」

「はい、住んでいたアパートも綺麗に解約されていて後には何も。

 あの子らしいさっぱりとした最期で……」

 そう言うと老婆はまた泣き出した。

 無理もない、娘を自殺で亡くしたのだから感情的になるなと言う方がおかしいだろう。

 拓馬は困惑した表情で手紙を見つめていた。


 拓馬は手紙を持って校舎を見下ろせる高台に登った。

 ここには数日前に自殺した先輩、加藤明菜と良く来たものだった。

 彼女と過ごした時間は長かったが、十数年の歳月によって影は朧気になっていた。

 拓馬は何かを思い出すことを期待して、高台まで登ったのである。

 少し息が切れている自分に拓馬は苦笑いした。

 見下ろした街は夕日に照らされている。

 黄金色の街、その風景を観ながら拓馬はぼんやりと過去を追体験していた。



 それは初恋だった。

 高校に入学したての頃、入部する部活を探していた拓馬が見たのは、一人で絵を描いている少女だった。

 光が差し込む窓の外では桜が舞っている。

 映画のように作り込まれたワンカット。

 一度だって絵に興味を持ったことなんて無かった癖に、拓馬はその日に美術部への入部を決めた。

 彼女は学校を見下ろせる高台でスケッチすることを好んでいた。

 ミニチュアのように見える街が手に取るように見えているのか、豆粒のような街角の風景を彼女は生き生きと描く。

 拓馬は絵画の美しさを解さなかったが、絵を描く彼女の美しさは知っていた。

 しかし、拓馬の蜜月の時間は長く続かなかった。

 

「30までお互いに独身だったら結婚しよっか」 

 明菜の口癖の様な言葉に、拓馬は溜息をついた。

「ふざけないでください」

 夕暮れの高台、吐き捨てるように言った拓馬の顔を明菜はきょとんと見つめた。

「怒ってるの?」

「当たり前でしょう!

 告白して振った相手にそんな事言うなんて……どうかしてますよ」

 言葉の最後には悲しみが宿っていた。

 それは明菜には届かない。

「知ってるんですよ。

 先輩が高橋さんと田中にも粉かけてるの……。 

 高橋さんとは寝たらしいじゃないですか。

 なのになんでそんな……クソっ!こんな話だってしたくないんですよ!」

「なんで怒ってるのか分かんないけど……」

 明菜は首を傾げて言う。

「拓馬くんはねぇ、心が好きなの。

 田中くんは顔が好きだし、高橋くんは体が好き。

 だから、拓馬くんはサンブンノイチ」

 気持ち悪い。

 拓馬はそう思った。

「だから拓馬君には私の事覚えていて欲しいな。

 私が欲しい時に、私のものになって欲しいから」

「……あなたは最低です」

「そうかなぁ。

 この人のここだけが好きだなって、ホントはみんな思ってるんじゃないかなぁ?」

 明菜は面倒臭くなったのか、スケッチブックを畳んで去って行く。

 拓馬はその後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでもその背中を見つめていた――


 拓馬は追憶を終えて、高台の手すりから身を離した。

 色褪せていた記憶はすっかり蘇っていた。

 忘れようとするたびにふと思い出してしまう過去である。まさかその切っ掛けが、明菜自身の死である日が来るとは拓馬にも想像がつかなかったのだが。

 苦い記憶は腹に溜まるようで、拓馬は大きく息を吐く。

「先輩に付き合うのは、これが最後ですからね」

 もう居なくなってしまった明菜に文句を言って、拓馬は携帯を取り出した。

 

 明菜の母親に協力してもらい、拓馬は一人の男を呼び止めていた。

 青白い蛍光灯の下でスマホを弄っていた男は向井陽と名乗った。彼は明菜の婚約者だったという。

「お義母さんからお話は聞きました。

 明菜のことで気になることがあるとか……。

 僕に答えられることならなんでもお答えします」

 そのルックスはかつて明菜の「顔」担当だった田中によく似ている。

 拓馬は思わず笑ってしまう。その様子を向井が戸惑うように見ていた。

「すみません、あまりにも想像通りだったもので」

「はぁ……?」

 拓馬は笑いを噛み殺しながら、向井に遺書を突き出した。

「向井さん。

 あなた不倫してましたね」

 向井は目を見張り、後退って椅子の背もたれに背中をぶつけた。

「な……なんで知ってる!?

 訳のわからない遺書以外はなにも……」

 向井は自分の口を思わず抑えた。

 色々用意してきた策も必要なかったらしい。古い刑事ドラマばりの自爆に苦笑いして、拓馬は遺書を懐にしまう。

「僕はサンブンノイチですから。

 彼女はやっと自分が求める完璧な男に出会えたと思ったのに、それが嘘だと知った。

 面倒臭くなったんですかね。女として生きることが」

「……知りませんよ、そんなこと。

 明菜の言う事だって、まるで分かった試しがない。僕は分かっている素振りををしていただけなんですから。

 ……死の前、彼女は僕に『あなたはサンブンノニだからね』って言ったんです。

 どういう意味なんです」

「顔と体だけが良い男、ですかね。

 あなたを愛してなどいない。かもしれませんが」

 そして拓馬はサンブンノイチ。

 彼女がその心意気を愛した男だった。

「……僕に何をしろって言うんです」

「先輩の絵、高値が付いてるやつから数枚持っていったでしょう?

 その絵を加藤家に返却してください。

 絵は先輩にとって唯一完全なものでしたから……。

 今の会話は録音してますからね」

 拓馬はそれだけ言うと部屋を後にした。


 明菜は世界に完全なものが無いことに疲れたのかもしれない。自分が全てを愛せるものは、自分で全てを形作る絵以外にない。それがどの様な世界なのかは拓馬には分からなかったが、孤独だということは間違いなかった。

 今回の拓馬の行動も、彼女と一緒に居た時間を通して、彼女が望みそうなことを行ったに過ぎない。

 最も彼女の心の近くに居た拓馬でさえ、明菜の理解者にはなれなかった。少なくとも、拓馬はそう思っている。

 拓馬は彼女が横たわる棺桶の前に行くと、本日何度目になるか分からない溜息をついた。

「普通自分が弄んだ男に後処理させます?

 しかも自己完結した手紙だし。

 意図と違っても責任取りませんからね」

 遺書に書いていたのは"サンブンノイチ"のみ。そして、拓馬にしか伝わらないように遺書を書いたのは、それが親に伝わらないようにする為だろう。

 サンブンノイチ、つまりは、明菜の全てを向井は愛していない。

 拓馬は明菜の過去の言動が彼女に返って来たのだと悟ったのである。 

 明菜は誰とも交際を宣言していなかったから正確には三又と呼べないのだが、拓馬はそう認識していたし、田中や高橋も同じだろう。

 その相手に悪びれもせず自分本意な遺書を残すのだからやりきれない。拓馬はうんざりとした表情を棺桶に向けた。

「さようなら、先輩。

 ……やっぱりあなたは最低です。」

 明菜の遺影がいかにも面倒臭そうな表情で、しかし、僅かに笑みを称えた表情で拓馬の背中を見送った。

 それは生前に拓馬がデートの最中に取った写真だった。

 

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サンブンノイチ 渡貫 真琴 @watanuki123

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