第36話 魚か鶏か
窓を開けていないのに、ふうと夜の風が通り抜けたような気がした。
「俺の身体の半分はあの男の血というか遺伝子が流れている。小さい時から母方よりの見た目だったけれど、多分骨格はだんだん似てきてた」
ちいくん、と万衣子に呼ばれていた幸正は彼女が卒業してから成長期に入り、ぐんぐん手足が伸びていった。
まるで長身だった父の姿をなぞるかのように。
「俺がそばにいると、父を思い出して怖かったと思う」
だから、母に触れることができなかった。
傷ついて息も絶え絶えな母を慰めたくて手を伸ばしかけて思いとどまる。
触れたら。
母の心臓も止まってしまうのではないか。
怖くて少し離れた場所から見守るしかなかった。
まだ子供で、男である幸正は無力だった。
母を抱きしめるのは。
祖母たちにしかできないこと。
助けに来てくれたことを心から感謝した。
「ちいくん」
万衣子はゆっくりと手を伸ばし、マグカップを囲んだままの幸正の指の背に少しだけ触れた。
「私はね。ちいくんがそばにいてよかった」
そろりそろりと中指と人差し指の先で撫でる。
まるで警戒心の強い野良猫に初めて触るように。
逃げないかな。
怒らないかな。
仲良くなりたいな。
そう思いながら微かに手を差し出すあの瞬間と、今は似ている。
「神さまが私の前にちいくんを連れて来てくれたと思ってる」
良かった。
幸正はそのまま動かず、万衣子の指先を許している。
「…どこの神様が?」
「うん。どこかの神さまが」
「どこかの神さまか…」
くしゃりと顔をしかめて幸正はかすかに笑う。
「ちいくんのおかあさんもそう。ちいくんがいてくれたから、今幸せなんだよ」
「幸せなのかな」
「え? お母さん、いま不幸せなの?」
万衣子が目を見開いて大げさに驚いて見せたら、幸正は吹き出した。
「ふっ…。そうだな。不幸せではないな、たぶん」
幸正の母は現在、実家の離れで茶道を教えている。
教え子は女生と子どもがほとんどで、暴力とは無縁の生活だといえるだろう。
父は、もうこの世にいない。
梅本の家での暮らしが落ち着いたころに、若い女と行ったリゾートで酔って海に入ってそのままだ。
ニュースに流れたが、あっという間に消えた。
あっけない最期。
いつか。
殴り返してやろうと思っていたのに。
そんな暴力的な思考がある自分は、やはりあの男の息子なんだな。
そうと思うと幸正は無性に死にたくなった。
あの夜の無力感が、また戻ってくる。
「ちいくん、ありがとうね」
万衣子は身体を前に伸ばし、幸正の手を両手でしっかりと握る。
ごつごつして、指が長くて、すっかり大きくなってしまった働く人の手。
「私を助けてくれてありがとう。一緒にご飯を食べてくれてありがとう。いつも美味しいコーヒーを入れてくれてありがとう。あ、快適な寝床もありがとう。めちゃくちゃぐっすり眠れたよ、あの時」
ぎゅっと、ぎゅっと。
逃げられないように。
どこかへ行ってしまわないように。
「先輩」
すっかり大人の顔になって、万衣子を守ってくれた梅本幸正は、やっぱりちいくんで。
かわいい、ちいさなちいくんのままだ。
「ふふ。つかまえた」
冷たい幸正の手が温まるように、さらに力を込める。
いつの間にか二人の手はマグカップから離れていた。
手のひらがどくんどくんと脈打って、それが自分のものなのか彼のものなのかわからない。
「ああ、そうだ。まずは見つけてくれてありがとうだね。煙草デビューの私に声かけてくれて。ふらふらになった私に飲み物買ってきてくれて。あの時助けられた万衣子三十三歳です。恩返しに来ました。何か恩返しさせろ…って、何をしたらいいのかな、私」
ふと、首をかしげて考える。
すると、幸正は顔を伏せて、肩を震わせて笑っていた。
「くくく…。恩返しの押し売りですか、先輩」
「うん。義理堅いの、私」
さあさあ、と万衣子はテーブル越しにせきたてていると、不意に幸正が顔を上げた。
「なら」
ちゅっと唇に暖かくて柔らかいものが触れる。
「え」
「キスからって、どうですか」
「どうって、いましたじゃない」
全身、勢いよく血が巡る。
頭から火が吹きそうってこんな時に使う表現だっただろうか。
「そういやそうですね。つい」
「ついって…、ついって…」
しれっと悪びれない目の前の男に万衣子は地団駄を踏んだ。
「あは。久々に見たな万衣子先輩の地団駄」
いたずらに成功した子どものような、軽くいなす大人の男のような。
なんにせよ、この余裕っぷりが憎たらしい。
「あなた、だれ」
こんなの知らない。
聞いてないよ。
どうしていきなりキスなのだ。
いきなり踏み越えてきた男にびっくりだ。
「もうもう、なんなのよ」
キリンみたいな草食獣だと思っていたのに。
そういやキリンも首を振り回して戦うのだった。
万衣子の思考が現実逃避しそうになるのに気づいたのか、幸正が顔を寄せてくる。
彼からなにやら大人の空気が流れていて、逃げ出したくなった。
「ちいくん、幸正君、梅本君…なんでもいいけれど、貴方が中学校の時の後輩なのは間違いありません。万衣子さん」
今度は大きな手にぎゅっと両手を包まれて。
万衣子は降参する。
「わかった。ちょっと待って。恩返し、もうちょっとゆっくり待って」
くすりと笑って、幸正は離れてくれた。
「わかりました。ではゆっくりで」
「うん、ゆっくりね」
でも、手を放してくれない。
ずっとずっとそのままで。
恥ずかしいような、嬉しいような。
むずがゆくて、逃げたいけれど逃げたくない。
「…あれ? これって」
万衣子は、答えを選び取る。
フィッシュ・オア・チキン? 群乃青 @neconeco22
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