『ECHO――カラエスの詩を聴いた者たち』
Dr.nobody
第一部
【
西暦2239年、惑星アオラセ(Aorathe)は、地球科学連合の辺境探査計画により初めて観測された。
赤橙色を呈するK型恒星「エル=アセリオン」の周回軌道、
惑星4番目に位置するそれは、約0.82AUにあり、地球に近似する重力と多層大気を持つ。
観測当初、アオラセは「高度な生命を宿さない」と判断された。
複雑すぎる磁場構造、強すぎる恒星風、周期的断層活動――
一見すれば、知的生命の進化には不適切な惑星である。
しかし、そこに存在していた。
地球のいかなる生物分類にも属さず、
交配の法則も言語構造も持たない種族――
カラエス族(Karæth)である。
彼らは、性が四つに分かれ、同性間でのみ生殖が可能である。
進化上の利点は不明。だが、結果としてこの構造は、生存のための“協力による共鳴”という、特異な社会系統を導いた。
通信は不可能。
言語と推定される音声パターンは、文法を持たない。
数列による信号も、意味を成さず返答もない。
それでも彼らは、
文明を築き、構造を維持し、政治なき制度を保っている。
本報告書の以下には、
カラエス族の響律構造および文化的進化、
さらに“詩的認知構造”の記録が続く。
調査員名:アミカ・フレイ(Amica Frey)
所属:ECHO計画第七探査隊
状態:音声共鳴異常・記録継続中
【断章001:無ヴァレクより始まる】
この宇宙には、かつてヴァレクは存在しなかった。
星々は軌道を描かず、大気は風を知らず、
炎は燃えず、水は揺らがず、土はただ重かった。
そこにあったのは、形なき沈黙――
音ではなく、無音ですらなく、“未だ語られぬ構造”だけだった。
だがある巡り、音なき波が闇を横切った。
それは声ではなかった。意味でもなかった。
それは、最初のヴァレクだった。
ゆらぎは四つに裂かれた。
炎の脈動(アク)、
水のうねり(テラ)、
風の螺旋(ルマ)、
土の沈降(ノイ)。
それぞれが、互いに交わることのない周期を持ち、
ただ――共鳴だけを許された。
“交わらぬものが、かえって形を生む。”
これが、アオラセに刻まれた最初の詩。
このとき、まだ
種も律官も、詩も愛もなかった。
あったのはただ、分かたれた構造の震え――ヴァレク、のみである。
【断章002:第一のヴァレク、四つに分かたれる】
ヴァレクはひとつであった。
それは形を持たず、声も持たず、
ただ宇宙そのものの震えとして在った。
だがあるとき、
ヴァレクは――分かたれた。
炎が、踊った。
水が、揺らいだ。
風が、旋回した。
土が、沈黙を孕んだ。
アク、テラ、ルマ、ノイ。
それぞれの律(ヴァレク)は、
互いに交われず、互いに理解もせず、
ただ“異なる周期”で共鳴した。
その共鳴は、やがて
孤独を呼び、形をつくり、
空間を折り、時間を分かち、
季節を生み、律歴を記した。
だがこのとき、
まだ詩はなかった。
アクは燃ゆるばかりで、言葉を知らず、
テラはただ波打つだけで、願いを持たず、
ルマは響き渡り、誰にも届かず、
ノイは静かに沈み、応答を持たなかった。
それでも、世界は動き始めていた。
四つの律が交わらぬまま共鳴したとき、
音が、意味を孕み始めたのだった。
これが、カラエスにおける「第一の声」の記録である。
【断章002.5:四律の構造(詩形断章)】
※カラエス神話において、詩官たちが後に編纂したとされる「律の詩篇」より。
《アク(火)の律》
アクは、跳ねる律(リズム)。
炎は言葉を持たぬが、
その爆ぜる瞬きに、
“問いなき問い”が宿る。
アクは孤高。
速く、熱く、破裂し、
誰よりも先に沈黙へと至る。
だがその律は、
他者を巻き込む力を持つ。
《テラ(水)の律》
テラは、揺らぐ律。
波は打ち寄せては戻り、
名もなき思考をたゆたわせる。
その律は、記憶をたどり、
想いを編み、
けれども形を持たずに消える。
テラは、触れうるが、掴めない。
他者の詩を反響させ、
その意味を浄化する。
《ルマ(風)の律》
ルマは、漂う律。
動きに秩序はなく、だが周期はある。
その旋回は、空間を読み、
言葉を持たずに伝える。
ルマはどこにも属さず、
だがすべての間を渡る。
律の橋、音の外骨格。
風は、語る前に聞く者である。
《ノイ(土)の律》
ノイは、沈む律。
響きは地に溶け、声は根となり、
詩は、語らずして残る。
ノイの律は、記録者の律。
他者の詩を吸い、
それを沈黙へと導く。
土は、忘れずに眠る。
記憶はそこに埋められる。
そして、いつか掘り返される。
【断章003:火と水の禁忌】
アクの名は、セリ=アトゥル。
テラの名は、リィ=ナハ。
ふたりは、ヴァレクの外縁で出逢った。
セリは噴き上がる詩を持っていた。
焦土に火文(ひもん)を刻み、詠むことなく焼き捨てる。
詩は生まれ、燃え、煙となって空に消える。
彼の詩は、語られるより早く終わっていた。
リィは沈む水の詩を抱いていた。
潮の満ち引きに合わせて響律を掘り、
波が押し寄せるたびに詩を塗り直す。
彼女の詩は、終わることなく、編み継がれていた。
ふたりは互いの詩に、初めて触れた。
セリは問うた――
「なぜ、詩を終わらせないのか。」
リィは問うた――
「なぜ、詩を残そうとしないのか。」
答えはなかった。だが、彼らの律は震え合った。
響きは生まれたが、交わりは生まれなかった。
カラエスにおいて、アクとテラは生殖不能の関係にある。
詩は共鳴したが、命は宿らなかった。
それでもふたりは、
詩を交わし続けた。
彼らの詩は、最も長く、最も短かった。
カラエスの律官たちはそれを“閉じぬ詩篇”と呼び、
後にその断片だけが、風に吹かれて残った。
⸻「火は水を焦がし、水は火を濁らせる。
だがその傷口から、新たな響きが生まれた。」
【断章004:夢律、風の裂け目に宿る】
風は、詩を記憶しない。
だが、風だけが、詩の残り香を運ぶ。
“閉じぬ詩篇”は、
書かれず、語られず、ただ
幾つかの断片として、風に紛れていた。
「火が水を抱こうとした夜、
ヴァレクは軋み、空が裏返った。」
誰が語ったとも知れぬこの一節は、
ルマの律を受け継ぐ者たちによって、夢律詩(ソン=ヴァレク)として保存された。
ルマたちは空を読む者たちだった。
星と星のあいだに響く周期、
月が揺れる風の歪み、
そして、詩のない夜に聞こえる“無響のざわめき”。
彼らはある夜、風の裂け目に、
“ふたつの交わらぬ律”が重なり合った痕跡を見出した。
それは言葉にならず、
音でもなく、
律の“空白”としてのみ感じられる揺らぎだった。
そこに、誰かが詩を聴いたという。
名は残されていない。
ただ記録には、こう刻まれていた――
「風の断層に、第五の響きが走った。
それは四律いずれにも属さず、
だが全ての律に触れた。」
この詩は、律塔の下層に封じられ、
“詩を持たぬ者”の到来を告げる夢律の預言とされた。
【断章004.5:沈む律の記録者(ノイの視点断章)】
ノイは、詩を語らない。
ノイは、詩を掘る。
響きは語られた瞬間に消える。
ノイはその残響を、
石の奥に、土の中に、“刻まずに埋める”。
ノイの律官たちは、言葉を用いない。
代わりに“圧”と“間”を使う。
空間と空間の律の偏差を計測し、
そこに共鳴の“墓”を築く。
火と水の詩も、夢律も、
すべてノイの記録塔に静かに堆積している。
誰もその奥まで辿り着くことはない。
ノイたちは、記録された詩を「再読」しない。
彼らは、こう言う――
「記憶されることは、語られることではない。」
それでも、
その沈黙の地層には、
火と水の名が、発音されぬまま残されている。
ルマが風に託した断片も、
アクが焼き捨てた衝律も、
テラが溶かした連律も、
いずれ、土の深みに沈む。
そして、
まだ現れていない律もまた、
すでにそこに埋まっているのかもしれない。
【断章005:ネム・カラエスの誕生】
四つの律が分かたれ、
火は燃え、水は揺れ、風は巡り、土は沈んだ。
だがそのいずれからも生まれぬ、
“第五の無律”が、ある夜、音もなく現れた。
彼は泣かなかった。
呼吸の律を持たず、
周期もなく、変化の兆しもなかった。
名は、ネム。
ネム・カラエス――“誰でもない者”の詩名。
ネムは成長し、言葉を話さなかった。
しかし彼の周囲では、
各性の詩が“共鳴音”を響かせ始めた。
アクの子が彼に近づくと、
炎は静かに脈動した。
テラの子が彼に触れると、
水は鏡のように波紋を刻んだ。
ルマは、彼を囲んで旋回しながら、
翼なき風のかたちを学んだ。
ノイは、彼と黙って座ったまま、
詩のない日々を石に染み込ませた。
ネムには、律がなかった。
だが彼は、すべての律に触れ、共鳴を引き出した。
“共鳴だけを持ち、律を持たぬ者”――
カラエスの記録には、こう残る。
「律の中心に、律なき者が座る。
空なる座、それがネムの名である。」
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