彫像の死

江東うゆう

第一章 究極の選択

第1話 フェンス前

 冬の木々が枝を打ち合わせている。音が冷たい。

 晴天を揺さぶるように鳴る音を聞きながら、丸山まるやま真吾しんごは学校前の信号を走って渡った。

 横断歩道の先には、高さ三メートルほどのフェンスがあった。その向こうは鬱蒼うっそうとした森で、奥に校舎があることもわからない。

 真吾は立ち止まり、黒い通学リュックを背負い直すと、フェンス越しに森を見つめる。

 学校の敷地の一部なのに、木々が暗闇を作るほどに森は深い。なぜ、こんなものが学園内にあるのだろう。そう思いながら。

 

「おい、まる。遅刻するぞ」


 神経質な声が背中に当たった。真吾は、むっとし、振り返る。背後で小川おがわ敬一けいいちが視線を腕時計に落としていた。

 敬一愛用の時計はアナログだ。本人も針に例えられる程、細い。


「まるって言うな」


 真吾は睨みつける。

 敬一は答えずに真吾の体に視線を走らせた。

 

 ――敬一の言いたいことぐらい、わかっている。

 

 余計に気分が悪くなりながら、真吾は自分の腹に手を当てた。朝食後とはいえ、丸く膨らんだ腹はブレザーのボタンがはじけ飛びそうなくらいだ。四月には余裕のあるサイズだったのに、半年と少し経ったくらいで、このざまだ。

 成長期だ、ということにしておく。身長は伸びなくなったが、腹周りはいくらでも大きくなる。

 一方の敬一は、腹回りだけでいえば真吾の三分の一もないかもしれない。


「フェンス、登ってみようぜ」


 視線を払いのけるように、真吾は手を振った。


「ダイエットでもするのか」


 敬一がいぶかるように眉を寄せた。


「違う。このフェンスの向こうは高校の敷地なんだぜ。正門まで回り道するより、ずっと近いはずだ」

「ふん」


 肯定とも否定とも取れない声が返ってきた。

 敬一はどうやら、正門まで走っていく正義感を捨ててはいないらしい。爪先が通学路の方を向いている。腰が引けて、強引な勧誘から逃れようとする客のようだ。

 

「なあ、敬一」


 真吾は彼の腕をつかみ、引き寄せた。

 足を踏ん張りきれなかった敬一がつんのめり、真吾の肩にぶつかる。


「おれたち、遅刻しそうになるのは当たり前なんだよ」

「そんな甘いこと言っていられないんだよ」

「だって、中学までは車で送り迎えしてもらっていただろ。違うのか」


 敬一が手で真吾の肩を押し、困ったように上目遣うわめづかいをする。


「そんな顔するな。送り迎えがあって、体力を使わなくてよかったために、おれは太った。おまえは体力なんていらないと勘違いして、ベジタリアンになった」

「やめろよ。真面目に学校に行くぞ」


 敬一が腕を振った。が、真吾の手をふりほどくほどの力はなく、ただ、敬一の腕がしなっただけだった。


「いいか。四月まで徒歩で学校に行ったことがなかったんだ。高校入学八ヶ月。そんなもんで徒歩通学に慣れるもんか」

「そんなの、他の奴だって同じだろ。内藤ないとう君だって、度会わたらいだって」


 内藤、度会。

 真吾は二人の名前に顔をしかめる。

 一人は真吾より成績がよく、一人は悪い。

 この学年で成績は権力だ。

 真吾は内藤にへつらい、度会を見下していた。


 ふと、真吾は怖くなる。

 高校卒業後、大学に入る。学力レベルからして、内藤とは同じ大学になるだろう。

 学力が社会全般において権力なら、大学で頑張れば、真吾は内藤を見下せる。

 でも、そうなってはいない。

 高校での人間関係が、この先、人生につきまとうのかもしれないと想像すると、もう、自分の前にあるすべての将来において、負けてしまったような気持ちになる。

 ふざけたことでもして、恐怖を打ち払うほか、日々をまともな高校生として暮らしていく方法がなかった。


「黙れ。だから、フェンスを登るんだ。近道するんだよ」


 再び引き寄せると、敬一はうんざりしたように顔をそむけた。


「まだ間に合う。走ろう、真吾」

「うるさい。おれはこれでも模試を受ければ、全科目の偏差値が七二以上だ」


 社会全体から見て、決して悪くはないのだ。この高校を卒業したというだけで、世間には尊敬の目を向けてくれる人もいるだろう。

 だが、おそらく、真吾が生きていく世界には――進学する大学にも就職先にも――そんな人たちは存在しない。

 それは、真吾が大学入試に大失敗したあと、挽回もできずに過ごしていく世界にのみ、存在する人たちだ。希望を失った後で尊敬されたところで、何の足しになるのだろう。


「ここは篤学とくがく学園高校だぞ。そのくらいは当たり前だ。威張るなよ」

「威張っているわけじゃない。プライドだって言っているんだ」


 ――おれは、今の世界で生きていくしかないんだよ。


 真吾は奥歯を噛む。口の中で臼歯がこすれる嫌な音がする。

 変えたければ今のうちに起死回生を狙うしかない。

 多少、間違った方法を使っても、だ。


「なあ、敬一。この、そこそこ良い頭を勉強にだけ使っていたらもったいないだろう。――遅刻だって? 冗談じゃない。何のための頭だ」

「頭の出来と足の速さは関係ないぞ」


 敬一は呆れている。真吾は敬一のジャケットの襟をつかみ、頬すれすれまで顔を近づける。


「工夫するんだよ。知恵を使え。今は、太陽が出ている。影が伸びている。何時何分か考えて、影に対して北がどちらか計算することだってできる。森を突っ切って、まっすぐ校舎に到達することが可能なんだ」

「そういう問題じゃ」


 逃げようとする敬一の腰に、真吾は手を当てた。


「うまくすれば、一〇分の短縮だ。行くぞ」


 言って、敬一を持ち上げ、フェンスに押しつける。


「やめろ、真吾」


 もがいた敬一の体の向こうで、フェンスがぎしぎしと鳴るのが聞こえた。真吾は手に力を込め、敬一を持ち上げる。


「登れよ。さもないと落とすぞ」

「やめろって!」


 敬一が小さく叫び、フェンスに指をかけた。それを見届け、体を押し上げる。


「さっさと行けよ。給食の肉、今日こそ食べられるんじゃないのか」


 それでも敬一は登るのをためらっていた。が、ふと腕時計に目を遣ると、覚悟を決めたように、足をフェンスにかけた。

 真吾は敬一を見守りながら、筋肉なんてまったくなさそうなのに、結構運動はできるものなんだな、と感心する。

 だがすぐに我に返り、自分もフェンスを登り始めた。

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